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<野口恒のインターネット江戸学講義⑥>第2章 全国に無数に作られた庶民ネツトワ-クの「講」と「連」(下)

   

 
日本再生への独創的視点<インターネット江戸学講義
 
第2章 庶民生活を支えたネツトワ-ク「講」と「連」―
全国に無数に作られた庶民の生活ネットワ-ク「講」(下)
 
野口 恒著
 
 
 
旅行ブ-ムを陰で支えた全国的な旅籠のネットワ-ク
 
 江戸時代の旅行ブ-ムや旅行ビジネスの隆盛を陰で支えたのは、徳川幕府による五街道(東海道・中山道・日光道。奥州道・甲州道)の整備と、大坂の浪花講、江戸の東講、大坂を講元に京都・江戸を世話方とする三都講による「旅籠のネットワ-ク」である。
 
徳川幕府は、幕藩体制の支配を強固にし、全国を統治するためにいち早く五街道の整備に取り掛かった。箱根を始め街道の要所には関所を設けて入り鉄砲・出女に目を光らせ、厳しく取り締まった。やがて江戸中期から後期になると、五街道の利用者が増えるに従って、幕府は旅人が安心して旅行・宿泊できるように宿場や旅籠(旅館)の整備に乗り出した。大坂の浪花講や江戸の東講などはそうした旅籠のネットワ-クである。
 
とりわけ浪花講は全国の主要街道にまたがる旅籠の一大ネットワ-クである。浪花講に加盟した旅籠はその加盟印を示す看板(鑑札番号)を軒先に掲げることにより、旅人は安心して泊まれる優良旅籠であることを確認する。当時は、ぼったくりや宿賃を騙したり、飯盛女(宿で食事等の給仕する宿場の女をいうが、中には遊女にとって代わることなどもした)を置いたり、賭博をしたりする悪質な旅籠も少なくなかったのである。
 
大坂の玉造(玉造稲荷神社)にはいち早く旅人に安全な旅をサポ-トする、今日の旅行代理店のようなシステムがあった。玉造神社は、江戸時代のお伊勢参り(伊勢街道)の出発点であった。当時、大坂の玉造を拠点して全国を行商していた唐弓弦師・松屋甚四郎とその手代源助は、長年の行商の経験を生かして旅人を安全・安心で、信頼のおける旅籠を提供しようと文化元年(1804年)に旅籠の組合である「浪花組」(のちに浪花講と改称)を立ち上げた。
 
この浪花講が指定する優良旅籠は「旅人の賭け事・遊女を買う事・酒を飲んで騒ぐ事」を禁止し、浪花講の鑑札を軒先に掲げることで旅人への目印とし、不良旅籠と見分けがつくようにした。さらに、浪花講は便利な旅行ガイドブック「浪花講定宿帳」を発行して、旅人は定宿帳に書かれてある街道を歩き、鑑札のある宿に泊まることにより、安全・安心な旅をすることができた。玉造の浪花講を嚆矢とした旅籠のネットワ-クは全国的に広がり、江戸の東講や京・大坂・江戸の三都講などに発展した。これらの旅籠講のネットワ-クは現在の指定旅館・ホテルのル-ツにもなったものである。
 
浪花講・東講・三都講に加盟する旅籠は旅行ガイドブック(たとえば、浪花講定宿帳や浪花組道中紀、東講商人鑑や五街道中細見紀など)にも紹介されているので、旅人はそうしたガイドブックを頼りに優良旅籠を選び、安全な旅行をしたのである。
 
今と違って、江戸初期にはまだまだ街道の治安が悪く、女性が旅をする、とくに女性の一人旅は非常に難儀であった。その理由は、当時女性の旅人は「入り鉄砲に出女」といわれ、関所の取り調べが非常に厳しかったことと、男性の旅人に比べて道中で追い剥ぎや強盗に襲われる危険が大きかったからだ。それでも、当時の旅行ブ-ムもあって地方によっては農閑期に近隣の温泉に女性だけで湯治に出かけ、また男性の旅人と一緒にお伊勢参りに出かける人も多かった。江戸後期になると、街道の治安も良くなり、宿泊施設も整ったので、女性だけで長旅を楽しむことができるようになった。
 
とはいっても、江戸時代の長旅は今と違って命がけのところがあった。当時の旅の心得帳には、「道中で、道連れを作るな、困った人に会っても関わるな、追い剥ぎ・盗人に注意せよ、遊女に用心せよ、生水は飲むな」などの注意事項が書かれている。やはり、当時の長旅は危険が多かったのである。
 
二宮尊徳の報徳思想を実践する庶民のセ-フティネット「五常講」
 
江戸時代後期の農政家であり、全国600以上の農村の窮乏を復興・救済し、農村復興・農業殖産の指導者としても有名な二宮尊徳(1787~1856年)が創設した「五常講」は、彼が唱えた報徳思想を実践した“庶民金融の講”である。相模の人である二宮尊徳は徹底した実践主義者であり、神道・儒教・仏教の教えからとった報徳教を創め、「仁・義・礼・智・信」の五つの徳を実践することを提唱した。
 
「わが教へは、徳を以て徳に報うの道なり。天地の徳より、君の徳、親の徳、祖先の徳、その蒙る処、人々みな広大なり。之に報うにわれ徳行を以てすると伝ふ」(「二宮尊徳翁夜話」より)そして報徳教とは次のような教えをいう。
 
「父母の根元は天地の令命にあり。身体の根元は父母の成育にあり。子孫の相続は夫婦の丹精にあり。父母の富貴は祖先の勤労にあり。吾身の富貴は父母の積善にあり。子孫の富貴は自己の勤労にあり。身命の長養は衣食住の三にあり。衣食住の三は田畑山村にあり。田畑山村は人民の勤耕にあり。来年の衣食は今年の艱難にあり。年々歳々報徳を忘るべからず」(「二宮尊徳翁夜話」より)
 
尊徳が唱える報徳生活を実践するための3要素は「勤労・分度・推譲」にある。彼は、「人は天・地・人の徳に報いるために自らの徳行を実践しなければならない」と説いた。そして、それらの徳の行いを意味する「推譲」とは、分かり易くいえば「持てる者が持たざる者に譲り、社会公共のために尽くすことを心がけ、人倫五常の道を実践する行いが社会全体に広まれば、困窮した農村の建て直しや復興も可能になり、社会経済も豊かになる」という内容である。その教えを実践する場として五常講を創設したのである。
 
五常講では、講員(講のメンバ-)みんなが生活の分度(収入に応じた消費支出限度)を守って勤倹節約することを教えている。そして、倹約して生まれた余剰資金を持つ講員は困っている講員への融資資金を負担する仕組みである。
講員はそれぞれよく知った仲間同士であり、お互いに信頼関係で結ばれている。いまは余裕資金を持つ貸し手であっても、いつ自分も資金に困り借り手に回るかもしれない。そこで、五常講では講員同士が互いに資金を融通し徳を実践することで、講中の助け合いや相互扶助を維持し、いざという時のセ-フティネットを保証しているのである。五常講は、庶民生活を底辺から支える今日でいうNPO(非営利団体)によるセ-フティネットに近いものである。
 
二宮尊徳の報徳思想や五常講は、2006年にノ-ベル平和賞を受賞したパングラディシュ
のムハマド・ニヌスの創設した、「貧者の銀行」と呼ばれる「グラミン銀行」(グラミンとはベンガル語で農村の意味)の考え方や金融の仕組みに非常に似ている。
 
グラミン銀行は一般の銀行が融資できないような農村の貧困層を対象に「マイクロクレジット」(小規模融資)という無担保・少額融資を行っている。顧客に対して担保を求めない代わりに、顧客5人による互助グル-プが作られる。そして、それぞれが他の4人の返済を助ける義務はあるが、連帯責任や連帯保証ではない。他のメンバ-に対して本人に代わって支払いの義務を負う必要はない。グラミン銀行は、こうしたマイクロクレジットを通じて、「16の決意」と呼ばれる思想を広めている。この16の決意は二宮尊徳の報恩思想に相通ずるものがあり、その目的は助け合いによる貧者救済と生活向上にある。
150年近く前の江戸時代に、グラミン銀行やマイクロクレジットを先取りした五常講のような庶民生活のセ-フティネットがあったことはまったくの驚きである。
 
同じ趣味や嗜好を持った者たちのアドホックな集まり「連」
 
 庶民生活を支えたもう一つのネットワ-クは、「連」の組織とネットワ-クである。江戸の庶民文化は「連」という人と人の自由なつながりや集まりから生まれたものが多い。たとえば、俳諧、狂歌、川柳、物語、小説、絵画、演劇、音楽などの芸能文化がそうである。
 
連は一種の文化サロンのような役割をもち、人と人のつながり(ネットワ-ク)を介してさまざまな才能が集まり、新しい文化を誕生させたのである。それが連の効用でもあった。
 それでは、江戸の庶民文化を生み出した「連」とはどのような組織であろうか。
 やや形式ばり、経済的な実利を追う趣のある講の組織に比べて、連は同じ趣味や嗜好を持った者の集まりで、しかもきわめてアドホックなネットワ-クである。規則や形式にあまり拘束されない、自由な人と人のつながりを基本とした、今日でいう同好会や異業種交流会のような文化サ-クルに似ている。
 
メンバ-は3~20人ほどの小規模で、他の連とのつながりは密接である。江戸時代にはこうした連が無数につくられ、ネットワ-クを形成していた。参加・出入りは自由であり、様々な年齢・職業・階級の人たちが寄り集まって作られていた。また、講のように強力なリ-ダ-がいて組織を運営しているわけではなく、世話役的なコ-ディネ-タ-がいて緩やかな組織の運営をしていた。費用は参加者がおのおのの経済力に応じて負担していたのである。
 
連で行われる作業はみんなが協力して何かを作っていく、今日でいう「コラボレ-ション」(協働作業)が基本である。現在「知識創造」のあり方としてコラボレ-ションが注目されているが、すでに江戸時代において連という組織を通じ、コラボレ-ションによる文化創造が行われていた。互いの協働作業が終わったら、そのまま連を続けてもよいし、1回限りで解散してもよい。組織の存続には一切こだわらないのが連の特色である。
 
俳諧や狂歌、川柳などの寄り合いはまさに連の典型である。たとえば、俳諧は五七五の発句に始まり、次に七七の句をつけ、さらにその次の人が五七五の句をといったように、その場に集まった複数の人たちが協働で連句を創っていく。その連句は最後の挙句(基本は36句)に至るまで連なっていく。
相手の言葉から伝わってくる気持ちや響きを感じ取り、自分の自由な発想で次の言葉を付けていく、ある種の“言葉の遊戯(ゲ-ム)”である。連句の形式は、まさに柔軟かつアドホックな人と人のつながりを基本とした連の形態を象徴的に表している。
 
 江戸時代に俳諧や狂歌、川柳などを詠んだ趣味人たちは、士農工商の階級社会の垣根を超えて集まり、全国各地で句会や歌会を開催した。会合に集まる人たちは本名と違う号(ペンネ-ム)を幾つも使い分け、階級の区別なくみんなで協働して創作活動を楽しんだ。ペンネ-ムを使うことによって身分・階級を越えて共通の土俵にのり、協働して創作活動に参加したのである。
 
俳諧や狂歌の詠み手たちは、連という場において同じ遊びの空間を共有する仲間同士である。武士・商人・職人たちが集まり、情報交換や交流をする場である連の活動では、参加者は幕府の厳しい支配体制や統制、階級社会の様々な圧迫から一時的にも逃れることができ、精神的に解放された時間を持つことができた。
 
江戸の庶民は、連の活動や人と人のつながり(ヒュ-マンネットワ-ク)を通じて自由な気風や解放感を享受したのである。ある意味で、庶民にとって連の活動は厳しい現実世界から解放された、今日でいうセカンドライフ(仮想世界)のような存在であった。
 
 「連」の活動でとりわけユニ-クなのは、複数の人たちによるコラボレ-ション(協働作業)で一つの文芸作品を創造していく「文化創造システム」にある。俳諧や狂歌、川柳でも相手の作品をじっと聞き、その作品にこめられた気持ちや思いを想像し、それらを自分の考えや気持ちと連ねることによって、新たな表現の世界を創造し、その可能性を探っていく。
俳諧の連句の世界はそうした人と人のつながり、気持ちと気持ちのつながりを何よりも大事にしている。それは相手任せの受け身の世界では決してない。相手を受け入れ、協働して創造作業に加わっていこうとする能動的な気持ちがなければできないことだ。
 
連句の世界には“暗黙の了解”がある。それは、相手を尊重し、自由な発想を大事にする。そして、一緒に何かをする「協調の精神」を共有することである。参加者は、連の場でそうした暗黙の了解を経験することで、自然に助け合いや相互扶助の感覚や気持ちを養って行ったのである。
 
町人や職人だけでなく、武士も連を作って活躍した
 
江戸の庶民文化は町人と武士の複合的な「融合文化」であるといわれる。その基本は町人文化にあるが、武士の方も町人の自由な生き方や粋な遊び方に憧れや羨望を持っていた。「町人たちの自由な寄り合いや集まりが羨ましい」と、むしろ武士の方が町人にすり寄っていたところがある。連は、そうした武士たちにも身分や階級に関係なく、自由に参加できる参加の機会と活動の場を提供したのである。
 
とくに、18世紀後半の田沼意次の時代(1772~1788年)には積極的な商業政策を重視したことにより、文化面でもさまざまな規制が緩和されたため、開放的な雰囲気が広がり、さまざまな町人文化が花開いた。俳諧や狂歌や川柳、あるいは大衆小説の洒落本とか大人のマンガといわれる黄表紙など、その文化活動には町民だけでなく一般の武士から大名まで参加した。   
 
とくに俳諧や狂歌の連には町人や職人だけでなく、武士も積極的に参加した。大田南畝(大田蜀山人、四方赤良)の率いた「四方連」、朱楽菅江(あけらかんこう、本名は山崎景貫)の率いた「朱学連」、唐衣橘洲(本名、小島謙之)の「酔竹連」などはその代表である。
大田南畝(狂歌名、四方赤良)は江戸中・後期の文人(戯作者)であるが、もともとは御徒士から支配勘定まで至った幕臣(武士)であった。早くから平賀源内に認められ、その後、狂歌仲間のサ-クル“四方連”の頭目として天明狂歌の中心であった。その他に、黄表紙、洒落本、滑稽本、随筆などの作品を書き、江戸文芸全般にわたってめざましい活躍をしたのである。赤良の作品は、世相の身近な出来事に題材をとりながら、きわめてユ-モアや皮肉(アイロニ-)にあふれている。
 
「くれ竹の世の人なみに松たててやぶれ障子を春は来にけり」
貧しいながら世間の人なみには門松も立て、やぶれ障子も張り替えて、どうにか春がわが家にもやってきたよ)
「一刻を千金づつにつもりなば六万両の春のあけぼの」
(古人は春の宵ひとときを値千金といったが、春の曙もその流儀で見積もって計算すると、六万両ということになる。たいしたものだ)
「世の中はいつも月夜に米のめしさてまた申し金のほしさよ」
(世の中は、いつも月夜が楽しめるし、米の飯も毎日食べ飽きない。結構ずくめのことではあるが、それからまた、お金も欲しいのです)
 
また、朱楽菅江も江戸後期の文人(戯作者)であり、狂歌仲間の文化サ-クル“朱学連”のリ-ダ-として活躍した。もともとは大田南畝(四方赤良)同様に幕府御先手与力という幕臣であった。和歌詩文に長じ、狂歌師としても知られていた。大田南畝、唐衣橘州と共に“天明狂歌ブ-ム”を起こし、当時狂歌の三大大家と言われた。彼の妻まつも“節松嫁々”というペンネ-ムを使って女流狂歌師として活躍した。菅江の作品には優雅で、しかもぼのぼのとした味が滲み出ている。
 
「あしはらやけさは麒麟もまかり出ておのがつのぐむ春にあへかし」
 
(立春の今朝、葦原の国に麒麟も出てきて、角のように草木が芽を出すめでたい春に出会いたいものよ)
「目の前で手づからさくやこのはなに匂ふうなぎの梅がかばやき」
(目の前で主人が手ずからうなぎを割いて蒲焼にしてくれる。自分の鼻には梅の香よりもどうやら蒲焼の方が匂うようだ)
 
さらに、唐衣橘洲もまた幕府御三卿・田安家に仕える幕臣であった。内山椿軒に狂歌を学び、天明狂歌の三大大家の一人として活躍した。ただ、橘洲は酔竹連を率いて、ライバル関係の四方赤良とは終始対立していたといわれる。
 
「まづひらく伊勢の大輔がはつ暦九重も花のお江戸も」
 
年の始めの日には、まず伊勢神宮の大輔御師が配った初暦を開いて見る。都の宮中の奥深くでも、花の江戸の庶民でも)
「ほととぎす須磨の浦ではなけれどもなれをまつ風村雨の空」
(ほととぎすよ、松風・村雨の須磨の浦の話ではないが、村雨の空に、おまえの鳴き声を聞けるのを待っていることだよ)
 
連の組織やネットワ-クはこうした江戸文化の創造に大きな役割を果たし、ある意味では“江戸文化の孵化器”のような存在であった。江戸連の活動を見ていると、江戸の町人たちがいかに心にゆとりや遊び心をもって趣味や文芸活動を楽しみ、ゆったりした気持ちで人と人の付き合いや交流をしていたことがわかる。

現代人と違って、江戸時代の人たちは時間の感覚が違っていた。江戸の人は、現代人のように時計やコンピユ-タなどによる人工的な時間に厳格に縛られることなく、月や太陽を見て自然の時間に合わせてゆったりとした時間を味わっていた。だから、心に、生活にゆとりがあった。連の参加者にも、緩やかな時間を共有し、自然と共にゆったりした気持ちで時間を享受する心のゆとりがあった。

 
野口 恒氏は
1945年生まれ、和歌山大学経済学部卒業。法政大学大学院社会科学研究科(経済学専攻)中退。群馬大学社会情報学部・静岡県立大学国際関係学部特任講師
、社会経済生産性本部・VJA専任講師、「情報化白書」編集専門委員(白書執筆)
・モノづくりを中心とした製造業・テ-マパ-ク、コンテンツビジネス、カラオケなどの文化産業・コンピュ-タ、パソコン、ITなどの情報産業の研究など幅広くカバー。
 
著書は多数。

『工業が変わる現場が変わる』(日刊工業新聞社)
『日本企業の基礎研究』(日刊工業新聞社)
『製造業に未来はあるか』(日刊工業新聞社)
『バーチャル・ファクトリー』(日刊工業新聞社)
『シリーズ・モノづくりニッポンの再生(5巻シリーズ)』(日刊工業新聞社)
『トヨタ生産方式を創った男』(TBSブリタニカ)
『アジル生産システム』(社会経済生産性本部)
『超生産革命BTO』(日本能率協会マネジメントセンター)
『オーダーメード戦略がわかる本』(PHP研究所)
『中小企業の突破力』(日刊工業新聞社)
『カードビジネス戦争』(日本経済新聞社)
『新カードビジネス戦争』(日本経済新聞社)
『ICカード』(日本経済新聞社)
『データベース・マーケティング』(日本経済新聞社)
『「夢の王国」の光と影―東京ディズニーランドを創った男たち』(阪急コミュニケーションズ)
『東京ディズニーランドをつくった男たち』(ぶんか社文庫) 等多数
 
 
 

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