片野勧の衝撃レポート(43)太平洋戦争とフクシマ⑯<悲劇はなぜ繰り返されるの「ビキニ水爆と原発被災<下>(16)
2015/01/01
片野勧の衝撃レポート(43)
太平洋戦争とフクシマ⑯
≪悲劇はなぜ繰り返されるのかー
★「ビキニ水爆と原発被災<下>(16)
片野勧(ジャーナリスト)
■封印してきた被爆体験をなぜ語るのか
私は『ビキニ事件三浦の記録』(約20年前に神奈川県三浦市が発行)をまとめたフリーライターの森田喜一さん(79)に紹介されて、広島で被爆した人に会った。三浦市栄町の岡地正史さん(86)である。今年(2014)6月26日。時計の針は午後4時20分を回っていただろうか。
「私は長い間、忌まわしい原爆体験の話を封印してきました。人に知られることが恐ろしかったからです」
岡地さんはこう語り始めた。できれば、封印したまま人生を終えようと思っていたとも語った。
「しかし……」と、岡地さんは話を続ける。
「原爆の恐ろしさを知らない若い世代が増えてきたこと。私自身、80歳を過ぎて、人生の先が見えてきたところから、この原爆体験を世に伝えることは被爆者の一人としてやらなければならない使命ではないかと思うようになりました」
岡地さんは被爆から64年後の平成21年(2009)8月6日、『原爆体験記』を出版した。それから3日後の8・9長崎原爆の日。今まで一度も人に語ったことのなかった被爆体験を地元三浦市で赤裸々に語ったのである。
さらに約2カ月後の10月22日。三浦市南下浦町の市立剣崎小学校6年生の子供たち19人を前に原爆の恐ろしさを伝えた。
「二度と戦争はあってはなりません。被爆のない平和な世界を求め、同じ過ちを繰り返さないことを願ってやみません」と平和への思いを新たにした。 (以下、『原爆体験記』を参考にさせていただく)
■船舶通信隊として広島に転属
「一日も早くお国のために役に立ちたい」
岡地さんは太平洋戦争末期の昭和20年(1945)2月、陸軍船舶特別幹部候補生に志願した。当時17歳。しかし、母は大反対。岡地さんは男7人、女2人の9人兄弟の6番目。志願を決意したとき、すでに3人の兄が戦死していた。
「これ以上、わが子を戦争で死なせたくないという母親の気持ちは痛いほどわかりました。しかし、いずれ死ななければならないのだから、幹部になってお国のために役立ちたいという気持ちが強かったようです」
岡地さんは母の猛反対を振り切って陸軍船舶特別幹部候補生に志願した。郷里の串本(和歌山県)からは岡地さんただ1人。体格検査と口頭試問の第1次試験が行われ、これに合格すると数学と作文の2次試験が行われた。首尾よく1次、2次ともパスして入隊が決定した。岡地さんの証言。
「私は仲間2100人とともに香川県の小豆島に集められ、教練を中心とした基礎訓練を受けました」
幹部候補生は船舶情報、船舶通信、船舶砲兵の3つの分野に分かれ、岡地さんは船舶通信だった。その後、本土決戦に備え船舶通信隊として広島に転属。千田町1丁目にある千田国民学校(現千田小学校)の一部を兵舎として借り受け、同じ候補生たちと寝起きしながら過酷な訓練を受けた。
「明けても暮れてもモールス信号を頭に叩き込む訓練と、空襲を受けた時の対処法など毎日、トン・ツー、トン・ツーとキーを叩いていました」
■運命の8月6日
運命の“あの日”――昭和20年(1945)年8月6日。通信隊員の一員として、朝8時の点呼で校庭に立ち、士官の話を聞いていた。空は青く澄み渡り、快晴だった。と、その時、「ピカッ」。8時15分。目を開けていられないほどの強い光――。原子爆弾が原爆ドームのある頭上約580メートルのところでさく裂したのである。
「ドーン!」。すさまじい爆発音の後、強い風が吹き抜けた。空に大きな雲がむくむくと立ち上がるのを見た。爆心地と千田国民学校とは直線距離で約1・7キロ。千田国民学校は講堂の鉄骨だけを残して一瞬にして倒壊、全焼した。岡地さんは語る。
「少年兵が私の上に折り重なるようにして倒れてきました。私は腹を下にして倒れたため、背中に大火傷を負いましたが、お腹は無事でした。結果的にこれが幸いしました」
校庭には長さ10メートル、幅5メートル、深さ1・5メートルのプールがあった。千田国民学校の児童たちは火のついた衣類のまま、プールに飛び込み、命を失った。この時の犠牲者は教師3人、児童41人。プールに飛び込んだ児童は全員、プールの中で死んだ。
■体に異変を感じた
岡地さんらは、わずか1・3キロの比治山練兵場へ。平常なら15分もあればたどり着く距離だが、目的地に着くまで1時間以上かかった。
“おや!”――。岡地さんは歩いていて体に異変を感じた。体全体が重くなっていたのである。火傷のため顔や体全体が水ぶくれとなり、歩くたびにゴム風船に水を入れているような感じだった。
道路には多くの死体が転がっていた。男女の区別もつかないほどの損傷で、ほとんどの人は裸だった。練兵場は名ばかりで、建物は痕跡を残すのみで一面、焼け野原。練兵場は傷を負った民間人、兵隊でいっぱいだった。
あちこちで「お母さん、助けて」「痛い、痛い」と泣き叫ぶ声が聞こえる。幹部候補生といっても、まだ17歳の子供たちだ。「やはり、頼りになるのは母親なんだと痛感しました」と岡地さん。
周りの少年兵は叫んでいた。
「水をくれ、水をくれ」
しかし、一滴でも水を与えると、その場で死んでしまうと言われた。水を含んだガーゼで口を湿すだけにして励ますしかない。部屋の中は焼け焦げた悪臭が漂っている。銀蠅は焼けた皮膚に卵を産み、それが孵化して蛆虫となって肉の中へ入っていく。
■好奇の目で見られた
被爆して4カ月後に兄が迎えにきた。広島から故郷の串本まで列車に揺られて約7~8時間。久しぶりにみる串本駅のホームは黒山の人であふれていた。兄は「みんなお前を迎えに来ているのだ」と聞かされてびっくり。
当時、串本は人口2万人の小さな町だった。岡地さんが広島で被爆したことを町中の人々が知っており、広島で何があったのか、ぜひ本人の口から聞きたいというのが出迎えの理由だったらしい。
「正史、よく帰ってきたね」
母は岡地さんを見るなり、大粒の涙を流して取りすがった。
家に帰ってからも見舞客は後を絶たず、「ぜひ、話を聞かせてくれ」とせがまれた。しかし、一歩、家を出ると、好奇の目で見られることもあった。母も毎日のように近所の人たちと外で顔を合わせるたびに息子の原爆のことを聞かれた。そのことが母にとってどれほど辛いことか。そのころ、広島をめぐるうわさが広がっていた。
「新型爆弾を受けた人の子どもは心身に悪い影響が出るらしい」。いわれなき差別に岡地さんは決めた。広島にいたことを隠そうと。また、これ以上、自分が家にいたのでは、母に負担をかけてしまう。火傷も快方に向かい、十分独り立ちできる程度に体力も回復していた。
■「三崎へ行けば金が儲かる」と聞いて
子どもの頃から「三浦三崎でマグロ船に乗ると金が儲かる」と聞いていた。事実、和歌山県から大勢の人が三崎に来て成功していた。岡地さんは「三崎に行ってマグロ船に乗る」と母に言ったら、幹部候補生に志願したときと同様に大反対された。母はマグロ漁船の仕事がどれほど過酷なものであったかを知っていたからだろう。
しかし、母の反対を押し切って三浦・三崎に移住。昭和23年(1948)の春、20歳のときだった。岡地さんの親戚筋に、三崎で船主をしているKさんという和歌山県出身の人がいた。訪ねると雇ってもいいと言われた。
しかし、今はどの船も船員でいっぱいで空きがないため、取りあえず他の船主の船に乗ってくれと言われ、大黒丸という船を紹介してくれた。機関員見習いとしてマグロ漁船に乗り込んだが、上半身の火傷の跡を隠すため、真夏でも長袖を欠かさなかった。
■マグロ船で破格の収入を得た
当時、戦争のために長い間、マグロ漁業が行われていなかったこともあり、どの漁場も資源が豊富で出漁すれば満船になった。大黒丸は150トン程度の小さな木造船だったので、20日ほどの操業で満船となった。
最初の出漁で岡地さんは何万円という給料を得た。当時、大卒の初任給が数千円という時代でまさに破格の収入だった。三崎へ行けば、金儲けができるという噂は本当だったのだ。
2航海目からはKさんの第13光栄丸へ移った。岡地さんは水爆実験のあった3月1日、船に乗っていなかったので、被爆から免れた。しかし、この船は3・1ビキニ事件に遭遇。その際、三崎に入港した船の中でただ1隻、全量廃棄するという被害を受けたのである。再び、岡地さんの証言。
「船員が苦労して捕ってきた魚の廃棄を事務的に決めていく市場関係者をみて、私は本当に怒りを覚えましたね。しかし、それ以上に怒りを覚えたのは、多くの漁師が白血病やがんなどで次々と亡くなっていったことです」
さらに言葉を継いだ。目には涙が光っていた。
「命を取り留めた被爆者の多くは、肝臓がん、胃がんなどに冒されて死亡しました。私の兵隊友達も皆、死にました。生き残っているのは私一人だけです。私も体にダメージを受け20年後、被爆がもとで胃がんを2回手術し、肝臓も冒され手術後、元気になり今日に至っております」
ひっそりと奪われた命がある。その一方、いまなお、いつ発症するかわからない核放射能におびえながら生きている生がある。あれから60年。17歳だった岡地さんは父親になり、祖父になった。
片野 勧
1943年、新潟県生まれ。フリージャーナリスト。主な著書に『マスコミ裁判―戦後編』『メディアは日本を救えるか―権力スキャンダルと報道の実態』『捏造報道 言論の犯罪』『戦後マスコミ裁判と名誉棄損』『日本の空襲』(第二巻、編著)。近刊は『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)。
つづく
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