前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

<日本最強の参謀ー「杉山茂丸」の経済雄弁術⑦ 細かい数字を百年の国策に取り交ぜ、談論風発、相手を煙幕に巻く。

   

 日本リーダーパワー史(481)


<日本最強の参謀は誰か「杉山茂丸」の経済雄弁術⑦ >

 

   その六尺近い巨体を擁し、堂々人を圧する魁偉なる容貌と、どこまでも

相手を魅了せずにおかない長広舌は、まさに座談の雄者である。

   庵主の座談には、硬軟とりどり、千紫万紅である。経済を口にして払

い込がいくらで配当が何分、為替が何ドル、外債の利子がいくらと、

ソロバンの細かい数字を、大日本の百年の国策に取り交ぜ、

談論風発、相手を煙幕に巻き込んでしまう。

 

◎『杉山茂丸と秋山定輔下村 海南著

 

前坂俊之(ジャーナリスト)


明治国家の参謀、明治政府の大物を陰で操ったと言われる杉山茂丸について長年関心を持って、調査、研究しているが、このほど下村海南著『はきちがえ』四條書房(昭和八年五月刊)という本を古本屋で見つけ、その中に『杉山茂丸』についての珍しい文献があったので、以下で紹介する。(20037月に執筆)


下村海南(しもむら かいなん)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%9D%91%E5%AE%8F

 

1875.5.111957.12.9。和歌山県出身。 本名下村宏。
1898年東大政治学科卒業、逓信省入省。貯金局長を経て1915年台湾総督府民
政長官。早大、中大、東京商業大学で財政学の講師となる。その後,朝日新聞副社長、1945年終戦時の情報局総裁。児玉源太郎、後藤新平と親しかった杉山とは交流が深く、杉山が亡くなった時、下村は朝日に追悼記を連載している。


秋山定輔

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E5%AE%9A%E8%BC%94

は明治の新聞人,政治家。明治26(1893)10 月に「二六新報」を創刊。最初はうまくいかず、休刊をへて明治33(1900)年に復刊。1 2 厘の廉価で「万朝報」に対抗してセンセーショナルな紙面で労働者階級へアピールし、部数を伸ばした。その後激しい政府攻撃を展開して発行禁止処分も2 度受けた。

――――――――――――――――――――――――――――――
『杉山茂丸と秋山定輔』


下村 海南著


(1) 人形と人形使い


吉田文五郎も、吉田栄三も1年づつ年をとって行く。文楽の人形浄瑠璃というものが、このままで続くのか、益々盛んになるのか、それとも次第に衰えて行くのか、それもわからない。しかし、文五郎なり、栄三の一年づっゆ年をとって行く事だけは間違いがない。
文五郎、栄三のあとをつぐ人が出るかどうか、それもわからない。また、人形作人として後世、後嗣ぐべき人なしといわれ、「人形道の神様」にたとえられている文三郎のような人、今後見られないといわれるが、果して、然るかそれもわからない。


維新の元勲として、伊藤博文あり、山県有朋あり、次いで新日本興隆の舞台に立役者として活躍せる者に、桂太郎あり、児玉源太郎,寺内正毅あり,後藤新平あり、田中義一あり、これらの人形を

躍らした文五郎、栄三にたとへんは言葉が過ぎるかも知れぬ。
しかし、少くとも絶えず、政界の裏面に活躍し、殊に日清、日露の二大戦役の前後を通じ、奇策縦横、彼の春秋の蘇秦、張儀にも比すべく、こうした立役者の帷幄に活躍せる者に杉山其日庵がある。


庵主は自ら「もぐらもち」と称している。常に地の底ばかりはいまはっているというのである。

人形とならず人形つかいになっておる、それも黒衣を着た人形遣いであるというのである。本人はそういはなくとも、筆者はそういっているのである。しかもその手馴れた人形は、ぽっりぽっりと無くなつてゆく。

 

おのれの命の影もまた一日一日と薄らいで行く。庵主は遠からず来るべき死に直面して、さきに『俗戦国策』なる一本を筆にしてある。
日常好んで剣を相し、義太夫を語るの外、文筆をよくして幾多の著書を公にしている。
しかし、何んといっても、其日庵主人杉山茂丸の真価は実にその便々たる大鼓腹と蘇秦糞くらへの口舌であらねばならぬ。


庵主の口舌は壇上て、大衆を前にし、とうとう懸河の弁を振うのではない。相手とサシで取り組み組み説き伏せるのである。相手が大物であればあるほど取組みやすいらしい。


その六尺近い巨体を擁し、堂々人を圧する魁偉なる容貌と、どこまでも相手を魅了せずにおかない長広舌は、まさに万人が等しく認める座談の雄者であらねばならぬ。


(2) 経済を口にする国士


由来、国士を以て任ずる人々の弁論は、とかく話に上下を付けて竪すぎる。熱烈過ぎて、常軌を逸しやすい、感情にはしり過ぎて、話しが抽象に陥りやすい。しかも庵主の座談には、硬軟とりどり、千紫万紅である。殊に経済なるもの口にする。


払い込がいくらで配当が何分だから利回りがいくらくになるとか、為替が何ドルを割ったから外債の利子がいくら
いくらになるとか、日歩がいくらの、コールが何厘だのと、ソロバンの細かい、細かい数字を、
大日本の百年の国策に取り交ぜ、談論風発相手を煙幕に巻き込んでしまうのである。


筆者が庵主の座談を耳にしたのは、大正4年、台湾赴任以来の事で、爾来すでに幾十回たるを算し切れない。
或る時はアパートの一室で、夜蔭に至るまで6 時間近くも、さしで話し合ったというよりは、庵主の立続けの快弁にみせられた事もある。


庵主の座談には、例の政界や軍服の立役者が軒並に出て来る、先方から云へば、杉山をかったとも、彼を利用したともいうであらう。

庵主からいえば芻僥の言を述べたに過ぎないというか、それともおれはただの人形の足使いであったーイヤ左使いであったとりふか、イヤ人形使い(シテ)として人形を躍らしたというか、それは分らぬ。

とにかく、その話題にのぼる役者の顔ぶれといい、劇場の大きさといい、舞台の装置といい、一筋書が日清、日露の戦役に織り込まれているのだから、聞いていると、とても面白い。


(3)「其日庵」と文五郎

話の筋がとても誇張されているなと思はれる事もある、イヤ、その法螺丸などいうニ
ックネームに徴してもありそうな事である。

しかし、一度新橋あたりの会席で主人となり、朝に野に文に武に名の売れた一流どこ
の客種をずらりとならべる、それだけでもかなり壮観であり奇観である。

後藤伯爵(新平)などは、いつも床の間正面か、その附近に鼻目がねをギョロつかせている。

その前へノソリノソリと乗り出して『おい後藤,一杯もらおうか』とばかりに、ドッコイショとエンコして、四本半になった指先をぐっとさし出すところなどは、我党の士をして快哉を叫ばしめ、気の弱い芸者をしてはらはらさせる。


それなれば「おい下村一杯もらおうか」とくるのかと思うと、中々以て左にあらず、『下村さん、下村さん』
とさんづけにする、こまい人形はつかいにくいと見える。


つまり威勢隆々飛ぶ鳥も落すような大物に、ぐわんと一本当身を喰はしておくだけで、
他は眼中に置かぬという形である。

このほど、台華社の楼上に見舞った時、
『明石(元二郎)死ぬ、寺内(正毅)も死ぬ、田中(義一)も死ぬ、団(琢磨)まで死んだ。貴様もいい加減に一緒に来いと、眞黒闇の中から野郎共おれの足を引張りよる。
しかし、此の時局を前にして、これを見すてて行けますかい、見物するだけでも生きてをらにやならぬと、寝台にしがみついてがん張るところだよ』
と寝台の上で哄笑する庵主を見た。


近頃は工場の機械で大仕掛に規則と先例で、堅めた千人一色の人形が大量生産で吐き出されてる。
型外れの人形は段々影をひそめて行く、時は次第に流れて使いなれた人形はいつの間となく亡くなってゆけば、
人形使いも一年づつ年をとってゆく。
さびしいと思うのは攝津越路去って後の、老いたる文五郎を見る文楽ばかりで無い。

     
(3)訥弁の雄・秋山定輔


其日庵主人の声調は義太夫で叩き込んである丈に太い声である。バスの音である。
どうもソブラノ式の声は男子には割が悪い、言いづらそうであり又聞きづらい。大口喜六、小川郷太郎諸士の声などはソプラノ式に似て非なるものである、きつく、鋭く響く、やわらかみが少い、どう声の調子は濁った方が耳当たりが好い、キイキイ声の達弁は、却ってドス調の訥弁がよい。

訥弁はそこに何等かの真面目さを示している、あまりにしゃべり立てるのは人間の柄
が簿っべらであるような感じを与える。言葉のどもる人は重厚というような感じを与える。

 

僕の知る限りでは、その昔、逓信省で古市公威男を上官に仰いだ事がある。男のどもる調子が、我われにとても懐しい暖かい真面目な感じを喚び起した。

三宅雪嶺居士の如きもまさに、その一例である。さらに其日奄主人と相並んで連想されるのは秋山定輔翁であるが。翁は訥弁である。然しそれが雄弁以上に開く者の心を捉へる。(以下略)

(『雄弁』昭和7年9月号)

 

◎<杉山茂丸について>

http://www.toshiyukimaesaka.com/wordpress/?p=1718

 

新聞記事文庫 政治(59-051)
国民新聞 1939.5.22(昭和14)


政治の裏街道

策士暗躍内閣を蝕む

時局の内幕


http://133.30.51.93/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10106203&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

 - 人物研究 , , , , , , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

『オンライン講座/日本興亡史の研究 ⑬』★『児玉源太郎のインテリジェンスはスゴイ!⑨』★『クロパトキン陸相の日本敵前視察に<すわ、第2の大津事件か!>と日本側は戦々恐々』★『児玉いわく、何も騒ぐことはない。クロパトキンに日本が平和主義で、少しも対露戦備がないことを見せけてやり、ロシア皇帝に上奏させるのが上策だ。クロパトキンの欲するものは包み隠さず一切合切見せてやれ、と指示した』

  2017/04/20   日本リーダーパワー史 …

no image
明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変④』★『連合国を救援するために日本が最大の部隊を派遣、参謀本部の福島安正情報部長が「各国指揮官会議」を仕切って勝利した』

 明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変④』-   連合軍の足並みの乱 …

no image
『オンライン講座/国難突破学入門』★『ロケットの父・糸川英夫いわく」★『なぜ事故は起きたのか(WHY)ではなく「事故収束」「復興・再生」の「HOW TO」ばかりの大合唱で、これが第2,3の敗戦につながる』②『すべての生物は逆境の時だけに成長する』★『過去と未来をつなげるのが哲学であり、新しい科学(応用や改良ではなく基礎科学)だとすれば、 それをもたない民族には未来がない』

  2011/05/18  日本リーダーパワー史(153)記事転載 3 …

no image
『オンライン講座/新聞記者の冤罪と死刑追及の旅①』全告白『八海事件の真相』(上)<昭和戦後最大の死刑冤罪事件はこうして生まれた>①

   「サンデー毎日」(1977年9月4日号)に掲載  前坂 …

no image
日本風狂人列伝(32)日本奇人100選③、熊谷守一、宮崎 滔天、黒岩涙香、和田垣謙三、三田平凡寺、青柳有美、坂本紅蓮洞・・・・

日本風狂人列伝(32) 日本奇人100選③、熊谷守一、宮崎 滔天、黒岩 涙香、 …

『オンライン/100歳学講座』★『蟹江ぎん(108歳)きん(107歳)さんのギネス長寿姉妹『スーパーセンテナリアン10ヵ条』★『「人間、大事なのは気力ですよ。自分から何かをする意欲を持つこと』★『「悲しいことは考えんほうがええよ。楽しいことを夢見ることだよ』

      2019/06/19&nbs …

『歴史の復習問題・オンラインZ世代のための日本戦争史講座①』★『日本興亡史3回目の転換点・戦後の安保体制を見直し自立防衛政策(GDP2%)を構築へ』★『明治・大正の軍国主義(強兵富国)から『昭和の平和ボケ経済GDP主義』へ『令和の平和国際経済(GHP)安保主義へ大転換へ』

2015/07/20  終戦70年・日本敗戦史(114) <世田谷市民 …

[ Z世代のためのAI(人工知能)を上回る天才脳の作り方①」★『世界天才老人NO1・エジソン(84)<天才長寿脳>の作り方』ー発明発見・健康長寿・研究実験、仕事成功の11ヵ条」(上)『隠居は非健康的である。死ぬまで研究、100歳までは引退しない』

  2018/11/23  記事再録 百 …

no image
日本リーダーパワー史(397)肝胆相照らした明治の巨人、福沢諭吉と山本権兵衛ー福沢は「あれは軍人ではなくて学者だ。

    日本リーダーパワー史(397) &nbsp …

no image
日本リーダーパワー史(121)日露戦争勝因のロスチャイルド秘話=怪傑・秋山定輔のインテリジェンスはスゴイ

日本リーダーパワー史(121)日露戦争勝因の秘話=怪傑・秋山定輔のインテリジェン …