終戦70年・日本敗戦史(106)太平洋戦争の原因はその約50年前の日清・日露戦争までさかのぼらねばわからない①
2015/08/14
終戦70年・日本敗戦史(106)
歴史とは現在への過去形である。70年前の太平洋戦争の原因は
その約50年前の日清・日露戦争までさかのぼらねばわからない①
前坂 俊之(ジャーナリスト)
今、中国・韓国が「日清戦争」「日露戦争」までひっくるめて日本の『侵略戦争』などとプロパガンダを世界に広めている。いまだに延々と続く北朝鮮との拉致交渉、韓国との従軍慰安婦問題や強制連行問題のやりとり、こじれ、失敗のルーツは約150年の明治維新直後の朝鮮との修好条約の交渉開始からの対立にある。
外交官との面会拒否、国書の受とりを拒絶、時間引き伸ばし、約束無視の態度から日本公使館への襲撃、暴動などへエスカレートして、一向に埒が明かない。恨の怨念による「トンデモ外交・害交術」で、現在と全く同じパターン。この日中韓150年戦争史をしらずして、現在の3国関係の歴史認識のねじれにねじれたコミュニケーションギャップを理解することはできない。
西欧列強の植民地競争は極東アジアへと迫るー情勢不安の朝鮮に日本は介入を始める
日本が初めて経験した近代の対外戦争は日清戦争である。この契機は世界の植民地化の最後に極東アジアに押し寄せてきた西欧列強である。南進を図る大国ロシアは朝鮮に迫り、無敵と思われていた清国はあっけなくイギリス,フランスに敗れた。このままでは日本も植民地になるーとの危機感が燃え上がった。
西欧列強の侵略に備えるため日本は朝鮮に歩み寄った
東アジアの清(中国)、朝鮮、日本にいち早く侵攻(開国、貿易の要求)してきたのはイギリスである。1600年に「東インド会社」を設立してインドを経済的に支配したのを皮切りに、19世紀にはベンガルを直接植民地として1877年には、ヴィクトリア女王がインド皇帝となって支配した。
日本と同じ小さな島国の英国が「世界の七つの海」を支配し、植民地大帝国を築くことができたのは、産業革命のたまものである。蒸気船の発明によってアジア航路を大幅にスピードアップし、軍事力を高めたのだ。
英国はインドを拠点にマレー半島にも勢力圏を拡大。1819年にはシンガポールを占領、マレー半島を保護領とし、香港まで着々と植民地とした。そして中国にアへン戦争を仕掛けて、最後に残った日本、朝鮮にも迫ってきた。
一方、北からは大英帝国の宿敵ロシアが、不凍港を求めてシベリアからアラスカまで膨張を続けてきた。フレデリック・シューマン著『ソ連の内政と外交』によると、この300年間の領土拡大のスピードは、一日平均100平方キロメートルという。この間ロシアは、黒海の不凍港を獲得するためオスマントルコと4回、戦争を繰り返した。日本が明治維新(1858年)を迎える5年前に勃発したクリミヤ戦争では、英仏はトルコを助けてロシアに宣戦。1856年にロシアを破り、その南下を阻止した。
西への侵攻に失敗したロシアはシベリアからの南下に切り替えて、清、朝鮮、日本に侵略の魔の手を伸ばしてきた。この方面にはヨーロッパ列強の勢力も伸びておらず、狙い目だったのである。
封建時代の【長い鎖国】に眠っていた日本、清、朝鮮の中で、この危機に目覚めて、いち早く開国に踏み切ったのは日本であり、遅れたのは朝鮮だった。そして、西欧列強への脅威に対抗するため、日本は朝鮮にも開国と近代化を迫る。しかし、それに反対したのが、旧弊な考えに囚われた中国だった。朝鮮とその宗主国・清は独自の「冊封朝貢秩序」を維持してきた。
「中華思想」である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3
柵封体制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81
習近平の「中国の夢」とはまさにこの『中華思想』の再発である。
- 「中華民族の偉大な復興の実現という中国の夢」http://jp.theorychina.org/xsqy_2477/201409/t20140916_312553.shtml
天下の中心は中華であり、周辺国は中華の徳を慕って朝貢する。距離が近い朝鮮は「小中華」、遠く離れたベトナム、日本などを夷狭(野蛮人)と蔑んでいた。
明治政府は明治元年(1868)11月、朝鮮に修好を求める文書を送った。
朝鮮・李王朝は清国や日本と同様に一貫して鎖国政策を続けており、長年の中華思想の影響で支那(中国)を宗主国と仰ぐ一方、「華夷序列」から、支那からの距離によって遠く離れたベトナム、東南アジア、日本などは夷秋(文明化していない存在)と蔑む冊封体制(事大朝貢体制)をとっていた。
朝鮮国王・李太王の実父で実権をにぎっていた大院君は、こうした文化的優越主義(中華思想)にこり固まり、自らを「小中華」と称して日本を「東夷」、すなわちさらに一段低い野蛮国とみていた。
黄文雄『日本の植民地の真実』(二〇〇三年刊)によると、中国は周の時代からすでに周辺の夷秋と冊封関係をとっており、朝鮮半島もその例外ではなかった。朝鮮は中国歴代王朝との属国関係に甘んじており、一貫して「中華帝国の千年属国」であった。「中国朝鮮商民水陸貿易章程」(1882年〈明治15〉9月調印)では、古代から朝鮮は属国であるので、清国政府とのすべての問題の交通の規範は固定されており、変更の必要はない、と記した。
朝鮮を清国から独立させ、列強の侵略に対して備えることが日清戦争(明治27年)での日本側の目的のため、下関条約の第二条に「清国は朝鮮の独立を承認する」と明記された。
このように朝鮮と清国との関係は、「礼」によって厳しく統制されていた。朝鮮からの「国書」 は「上奏文」とざれ、その書式、用語は清国の「礼部」のチェックを受け、「京師」(首都や「詔」「旨」「皇祖」「奉勅」といった北京が天朝として用いる語句は禁止されていた。
明治元年(1868)12月、明治新政府は王政復古の内容を朝鮮に通告して修好求めたが、文書の中に「皇」「奉勅」などの文字が入っていたのに朝鮮側は驚き、清国に伝わることを恐れ、国書を突き返した。「皇」は清国皇帝しか使われず、天皇が朝鮮国王の上に立つことを意味していたため、日本は朝鮮支配の野心があるものと誤解した。両国の異文化コミュニケーションギャップによって、朝鮮は 「開国の要請は内政干渉である」 と強く反発した。
ちょうど、この時期の朝鮮では鎖国、撰夷の風が吹き荒れていた。政権を握る朝鮮国王・李太王の実父の大院君は1866(慶応2)年フランス人神父9人と、カトリック信者8000人を大虐殺(丙寅教獄、へいいんきょうこく)した。
1871(明治4)年、アメリカの軍艦が来航して通商を要求した際もこれをしりぞけ(辛末洋擾、しんみようじょう)、意気上がっていた。さらに同年には朝鮮全土に鎖国、撰夷を維持する「斥和碑(せきわひ)」を建てた。
そんな真っ最中の明治3年10月、日本側は外務卿の代理三人が交渉に向かったが、朝鮮政府は当然のごとく引見を拒否した。5年3月にも代表を送って返事を催促したが、回答はなかった。両国とも「自文化優先主義」(エスノセントイズム)で、「相手側が無礼な態度をとった」 と敵意を増幅した。とくに日本側は、イギリス、ロシアなどの西欧列強が砲艦外交で清国、朝鮮に門戸開放を迫っている中で、朝鮮が
列強に支配されれば日本も危ないと強い危機感を抱き、朝鮮の独立を促してきたのに、頑強に拒否する態度に怒りを爆発させた。
おとなしい太政大臣(首相) 三傑実美までもが征韓論を主張して、明治六年七月に閣議に諮った。木戸孝允、大久保利通らは岩倉使節団として外遊中だったが、残りは西郷隆盛を全権大使として談判に朝鮮に派遣することが閣議で決まった。
しかし、帰国した大久保らは「西郷を派遣すれば戦争になる。いまは国力を養い、内政改革に力を尽くすべきときだ」と征韓論をひっくり返した。西郷、板垣退助、江藤新平らの参議は一斉に辞職、新政府は真っ二つに分裂した。その後、佐賀、萩、西南の役と相次いで内乱が勃発。維新の同志たち、士族たちの血で血を洗う事件は、この朝鮮問題が発端だったのである。
つまり、日本のように鎖国をやぶる自己改革力がなく、開国せず、攘夷に閉じこもった結果、亡国の道を歩む。
明治7年(1874) 5月、見くびっていた日本が台湾出兵によって勝利した。驚いた朝鮮政府は8月「日韓は各々完全なる独立国として平等に交際する」として、先の日本からの国書を検討したいと回答してきた。
このため翌明治8年2月、明治政府は外務参事官2人を京城(首都、ソウルに派遣した。だが、その洋服姿を旧来の服装とは違うと拒否して、またもや参内(きんだい)を許さなかったので、日本側は憤激して書面を投げつけて帰国した。
再三の無礼に、日本側は沿岸測量を名目に軍艦雲揚を派遣した。ペリーの黒船の「砲艦外交」を見習ったのである。明治8年(1875)9月20日、雲揚が江華湾内で砲撃を受けたため、応戦して砲台を破壊し占領した。
この責任を追及して翌年2月、黒田清隆全権が朝鮮に乗り込んで日朝修好条規(江華条約)を締結した。日本では初めての外交条約で、「朝鮮を独立国とみなす」と明文をもうけて清国との宗属関係を否定した。
つづく
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