終戦70年・日本敗戦史(61)徳富蘇峰が語る『なぜ日本は敗れたのか』⑫暗中模索の対支(中国)政策の大失敗
2015/04/23
終戦70年・日本敗戦史(61)
A級戦犯指定のが語る『なぜ日本は敗れたのか』⑫
「蒋介石を相手とせず」の近衛声明を発した対支(中国)
政策は、一から百までくたびれ儲けとなり、それに外交権
を奪った陸軍部内の暗闘が 一層輪をかけて外交失策を続けた
暗中模索の対支(中国)政策
日本の対支(中国)政策なるものは、もし政策という言葉を用いる事が出来れば、全く暗中模索であった。座頭の撃剣といえば、双方共に座頭であらねばならぬが、日本と支那(中国)との外交の太刀打ちは、日本が座頭で、支那は立派な人間並の眼を具えていた。これではとても、こちらに都合のよい駈け引は、出来るべきはずもなかった。
支那人は日本そのものについて、正しき了解を得ていたばかりでなく、時々刻々変化の情勢を手に取る如く、これを偵察した。しかるに日本では、全く暗中模索である。もちろん日本も相当の外交工作には、代価を払った。しかしその代価は、ほとんど皆な、支那人の策士のために奪い取られて、彼等の口腹をこやすに過ぎなかった。タダで与えて取る所がないばかりでなく、与えれば与える程、いよいよ我れの損が、大きくなって来たばかりである。
前にも言う通り、相手は蒋介石のほかはない。これは日本ばかりでなく、世界列国はみな蒋介石を相手として来た。しかるにその日本が、「蒋介石を相手とせず」というような、近衛声明を発して、その代りに王兆銘を引っ張り出した。
いまさら死んだ王兆銘の悪口を言う事は、面白くないが、しかし彼は、日本で言えば、尾崎行雄とでも言うべき男で、口だけは一通り以上であるが、仕事にかけては、何一つ出来た事はない。彼を中心人物として、支那を経営するなどという事は、飛んでもなき見当違いであった。それにも関わらず、日本では、王兆銘を賭け馬として、それに資本を注ぎ込んだ。注ぎ込んだといっても、あたかも河の中に水を棄てるが如く、何程の効用もなかった。
しかし蒋介石なら蒋介石で、王兆銘なら王兆銘で、せめて何れにか、方針を決めてやれば、まだしもであったが、口上では蒋介石を相手とせずと言いつつも、最後まで蒋介石に未練を残し、その方面に向っても、最後までかれこれ工作をして、また試みた事は、小磯内閣の時、膠斌をわざわざ日本まで呼び寄せ、それやこれやと、工作の下評議をした事を見ても判かる。
およそ裏面工作には、抜目のなき支那人の事であるから、王兆銘の政府、即ち南京政府でも、表面では南京政府を擁立しっつ、裏面では重慶工作をしていた事は、百も承知の事で、彼等とても、真面目に日本と協力して、いわゆる東亜共栄圏の一部として進む役目を、果そうする事は、もとより夢でもありえないことで、のらりくらりとただ日本から、出来得る限り搾取しよって、それで私腹を肥やすに過ぎなかった事は、今さらそれを指摘するまでもない事だ。
彼等は、最後に至っては、重慶政府に向って、我等と重慶政府とは、目的においては同一である、ただ我等は和平抗日であり、重慶政府は武力抗日であった。和平武力は手段であって、目的の抗日には、共に何等の相異はなかったと弁解した。この弁解は、重慶政府では聴き容れられず、彼等はそれぞれ処分を受けたが、しかしこれは決して、彼等の申訳ではなくして、胸中を打ち割って見れば、それが本音であったかも知れぬ。何れにしても日本は、アブも取らず、蜂も取らず、対支(中国)政策では、一から十まで、十から百まで、ただ御苦労損の、くたびれ儲けという諺の通りであった。
外交なるものが、陸軍のために横取りされて、殆ど存在価値を失っていた事は、陸軍の横暴のためか、外務当局者の無気、無力、無芸、無能であったためか。もし陸奥宗光や小村寿太郎が、外務の当局であったならば、これ程のバカは見なかったであろうと思うが、翻って霞ヶ関より、外交を奪い去ったわが陸軍は、一定の方針でやったかというと、陸軍部内でも、それぞれの手筋があって、一方が売り方と出れば、他方では買方とまわり、陸軍部内の暗闘で折角一方が工作をやれば、他方ではたちまちこれを打ち毀すというような事で、そのために得をしたのは、蒋介石であり、そのために損をしたのは、我が国家と国民であった。
私はかつて日本国民史を編纂の際には、太閤秀吉の朝鮮の役に、最も力を効し、その外交の散漫放縦にして、第一、敵情偵察について、大なる欠陥があるばかりでなく、外交の手筋も、小西〔行長〕の手筋とか、加藤清正の手筋とか、銘々勝手の外交をなし、遂に折角の大勝利をして、惨めなる最後に終らしめたる事を詳かにし、事実に拠てこれを記し、如何なる戦争の勝利も、外交上の失策は、これを全く水泡に帰してしまう事を示していたが、今度の支那事変(日中戦争)より大東亜戦争の外交に至っては、さらにその失策が、壬辰の役に比べれば、同様であって、その程度は、全く桁外れであり、幾十倍幾百倍という事が、数え切れない程になった事を、親しくこれを目撃し、後日の規箴(紀信=いましめの意味)として、ここに1言しておく。
(昭和22年1月24日午前、晩晴草堂にて)
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