前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

歴代首相NO1は明治維新の立役者・伊藤博文で『歴代宰相では最高の情報発信力があったと英『タイムズ』の追悼文で歴史に残る政治家と絶賛>

      2024/03/04

 

   日本リーダーパワー史(104)

 
    前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
明治国家を作ったのは伊藤博文。初代総理大臣となり、ドイツに学んで帝国憲法を作り、アジア各国が軒並みヨーロッパの植民地にされている危機的な状況の中で、東洋の1小国の日本がわずか40年で大国ロシアと戦争して勝って西洋列強と肩をならべるまでになった。伊藤の功績は大きい。貧乏百姓の子から総理大臣、初代枢密院議長、朝鮮総督、明治の元老となるなど、豊臣秀吉以来の日本一の出世男である。
 
 その出世の第一の秘密は『英語力』。一八八五年(明治十八)十二月、伊藤は初代総理大臣になったが、その時の総理の条件は「英語力」であった。誰を総理にするか参議の選考会議が開かれた。「これからの総理は赤電報(外国電報のこと)が読める者でない」と井上馨が口火を切り、山県有朋が「そうすると、伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。他の参議も反対せずにあっさり決まった。
 伊藤はそれまで英国・ロンドンに半年間滞在しただけの英語力だが、それでも天皇が外国大使と会見する時は、必ず伊藤が通訳をし、その後、英語力はめきめき上達した。
 
明治4年12月、岩倉使節団が米国・サンフランシスコを訪問した際、レセプションで31歳の同団副使・伊藤が英語でスピーチを行った。これが日本人による公式の場での初英語スピーチ。「日の丸演説」と絶賛された。
「数百年来の封建制度は、一個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、一年で撤廃されました。このような大改革を、世界の歴史で、いずれの国が戦争なくして成し遂げたでしょうか。今日、わが日本の政府、国民の熱望していることは、欧米文明の最高点に達することであります。このために、陸海軍、教育の制度で欧米の方式を採用しており、文明の知識は滔々と流入しつつあります」。新生日本を象徴する若々しいスピーチに万雷の拍手がわき起こった。
 
伊藤は西洋主義の積極的な推進者として、鹿鳴館に入れ込んだ。鹿鳴館では内外の大臣、紳士淑女が集まり、衣裳を凝らし仮装舞踏会が催された。第一次伊藤内閣の時には連日連夜、舞踏会や夜会を自ら主催し「舞踏内閣」と悪口を叩かれた。伊藤は無類の女好きで夜の部では、こうした舞踏会を利用して片っ端から女を口説いた。
 明治二十年四月に首相官邸で主催した派手な大仮装パーティーでは社交界で評判の美人であった戸田氏共伯爵夫人との関係がウワサとなった。伊藤は共伯爵夫人を裏庭の茂みに誘い込んで、乱暴して、いかがわしい振る舞いに及んだとか、夫人が裸足で逃げだしたとか新聞がおもしろおかしく書き立てた。このあと、戸田が全権公使に推挙されると、世論は博文にごうごうたる非難をあびせた。
 
藤博文直話』(小松緑著)の中で、「自分は、立派な家に住みたいとの考えもないし、巨万の財産を貯えたいという望みもない。ただ公務の余暇に芸者を相手にするのが何よりのたのしみだ」と書いている。「自分は生来欲が少なく貯蓄など毛頭考えない。子孫に美田を残すことも悪いことではないが、たいていは『長者三代』でつぶれる場合が多い。しかも、子孫の独立心を失わせ、放蕩癖を残すことになる。たかだか一万や二万のはした金は子孫の考えでどうにでもなるものだ。人にケチといわれてまで貯蓄する必要はない」
 明治四十二年十月二十六日朝、満州・ハルビン駅頭で伊藤博文は韓国人安重根に狙撃されて、六十九年の生涯をとじた。死後残されたものは、尾崎行雄がその安普請にあきれた「槍浪閥」とわずかな刀剣だけだった。元老の井上馨が千三百万円、松方正義が八百万円もの遺産を残したのに比べると、ゼロに等しく「スケェベー人間・博文」の清廉さを表わしていた。
 

19091027日付『英タイムズ』

伊藤公爵の殺害

 
当事国日本に次いでは,伊藤公爵の死を悼むに足る理由を持つ国は,日本の同盟国としてのイギリス以外にない。彼は昨日の朝ハルビンの鉄道駅で一朝鮮人によって射殺された。
彼がそのときロシアの蔵相のココグッオフ氏の横に立っていたという事情から,ロシア人は当然ながら屈辱と怒りに満ちている。殺害犯は,はっきりとこの犯罪を実行する目的でハルビンに赴いたと述べている。彼の言によれば,彼の国と,公爵の命令で処刑された彼自身につながりのある人々の復讐を望んだという。
 
 
だが,朝鮮人の気質や習慣を知る者にとって,日本の支配に対する彼らの怒りが暗殺に帰結したことは,全く驚くべきことではないが,この暗殺犯が行った犠牲者の選択には,とりわけ残酷な皮肉が感じられるのだ。彼が殺害した政治家は,朝鮮における日本の政策と統治に初めて融和的性格を刻印した人物だったのだ。彼は,すべての真の政治家と同様に,他民族支配は断固として行うべきであり,そうでなければ害悪を生み出すことを知っていた。
 
だが彼はまた,それがどちらにも益をもたらすものになるためには,武力だけに頼ってはならないことも知っていた。彼の前任者たちが朝鮮人に対処する際にあまり柱も高圧的手段だけに頼り過ぎたと,彼は実感していた。
そして彼がその国の統治の責任を負った3年半の間,彼は前任者たちの誤りを正し,前任者たちがつくり出した好ましからざる印象を和らげるのに全力を尽くした。彼は,その人生を大きな諸問題の解決に費やしたが,朝鮮問題についても他の問題と同様に,全く幻想にとらわれることはなかった。
 
彼は,彼の国の朝鮮における任務がつらく長いものになることを覚知していた。だが,最後には,彼が導入し追求したような,賢明かつ穏健で忍耐強い政策が必ず近親人種であるこの民族を味方につけることを確信していた。
 
 
 世界がその歴史の中に伊藤公爵を位置づけるには,長い時間の経過を必要とするだろう。われわれはまだ彼の業績のあまりに近くにいるので,その規模も展望も識別することができない。
 
だが今すでに分かるのは,それがこの時代で最も目覚ましい仕事だったことであり,われわれの多くは,それが人類の進歩における最大のものの中におそらく含まれることになるものと直観している。伊藤公爵は,その青年期の初めに,
アジア的で封建的な日本を近代的大国に変革することを志した一握りの人々の中にいた。
 
その驚異的な成果を達成する上で,彼は他のいかなる同志よりもはるかに功績があった。彼の若いときの物語,彼の封建領主によって大君の都に派遣された,憎むべき外国人を神聖な日本の国土から排除する最高の手段として,外国人の武器を研究し-武器の使用法以上に外国人からもっと学ぶべきことがあるとすばやく理解し,この知識を得るために命を賭けて脱出してイギリスに旅し,その知識の根本原理を容易に把握し,それを活用する方法を知っていたという話は,千夜一夜物語の挿話のようだ。
その後には,本国の反動勢力との長い葛藤の,移行と弱さの時期が続くが,それはゴールに到達するためには避けられない時期だった。
 
その時期とその経験によって,伊藤の心と性格において最も顕著な才能が成熱したのだ。彼はその当時得た教訓を決して忘れなかった。彼が最高度に自分のものとしている事実を直視する技を完成させたのはその時期のことだった。
 
彼はこの技を,彼の国の最重要利益がかかった際に発揮できた。例えば1895年にヨーロッパ列強3国が,日本に中国に対する勝利の主要な成果を辞退するよう迫った際に.彼はそれを顕著に発揮したし,ロシアとの戦争の直前にペテルプルグに派遣された際にも,その戦争の終結時の交渉の際にも発揮した。彼はこれを自分の朝鮮政策においても劣らずに目覚ましく発揮したし,また彼が,自分の国が再生を達成した際の状況と中国が同じ仕事を試みざるを得ない際の状況の違いをはっきりと理解していることにも,それが発揮されていた。
 
 彼は,大人になった最初の数年間に形成されたとりわけ偉大で大切な理想が完全にそして恒久的に実現するのを生きて目にするという最高の幸福を味わった。彼は近代日本の揺籃期を見守り,近代日本が国際的に高い地位に就くのを見た。カブールとは違って,彼は自分の事業が固まりその耐久性に満足を覚える前に早逝しはしなかった。
 
 
伊藤公爵が創造した国家は,イタリアやドイツが新しいという意味で新しいだけではない。それは独特であり,文明諸国民の伝統の共有財産にこれまで知ら
れていなかった思考習性と理想をもたらすものだ。そのことが,伊藤の業績をかくも重要にし,彼に歴史上の隔絶した地位を約束しているのだ。

 - 人物研究, 現代史研究, IT・マスコミ論

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(242)/★『日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(28) 『川上操六の日清戦争インテリジェンス①「英国の文明評論家H・G・ウェルズは「明治日本は世界史の奇跡であり、「日本国民はおどろくべき精力と叡智をもって、その文明と制度をヨーロッパ諸国の水準に高めようとした。人類の歴史において、明治の日本がなしとげたほどの超速の進歩をした国民はどこにもいない」と評価』。

 2016/01/07日本リーダーパワー史(635)記事再録 &nbs …

no image
日本メルトダウン脱出法(698)話題の一冊を書いた元国家戦略担当相が指摘 「財政破綻」「ハイパーインフレ」◎プーチン大統領と安倍総理が接近 〜日米関係悪化のリスクにヒヤヒヤする外務官僚

   日本メルトダウン脱出法(698)   話題の一冊を書いた元国家戦 …

『鎌倉釣りバカ人生30年/回想動画録』⑱★『コロナパニックなど吹き飛ばせ』★『10年前の鎌倉沖は豊饒の海だった』/『つり竿さげて、鎌倉海をカヤックフィシングでさかな君と遊べば楽しいよ』★『「半筆半漁」「晴釣雨読」「鉄オモリをぶら下げて」鎌倉古寺を散歩すれば、悠々自適!』

    2018/12/04 &nbsp …

no image
日本メルトダウン脱出法(589)『アベノミクスの挫折で深まる安倍政権の危機』「人口が急増する世界、日本が選ぶべき針路」

   日本メルトダウン脱出法(589)   &nb …

no image
日本リーダーパワー史(580)『スーパーマン・『イチロー(42)』の去就に注目ー『打ってほめられるよりも、打てなくて騒がれるようになれ』●「「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただひとつの道」(イチロー名言)

          &nbsp …

no image
『リーダーシップの日本近現代興亡史』(218)/日清戦争を外国はどう見ていたのかー『本多静六 (ドイツ留学)、ラクーザお玉(イタリア在住)の証言ー留学生たちは、世界に沙たる大日本帝国の、吹けばとぶような軽さを、じかに肌で感じた。

 2016/01/28 /日本リーダーパワー史(651)記事再録 &n …

no image
日本メルトダウン脱出法(717)「世界同時株安は「投機の時代」の終了を示す」●「天津爆発が証明した中国の想像を絶する“ずさんさ”」

    日本メルトダウン脱出法(717) 世界同時株安は「投機の時代」の終了を示 …

no image
現代史の復習問題/「延々と続く日韓衝突のルーツを訪ねるー英『タイムズ』が報道する120年前の『日清戦争までの経過』③-『タイムズ』1894(明治27)年11月26日付『『日本と朝鮮』(日本は道理にかなった提案を行ったが、中国は朝鮮の宗主国という傲慢な仮説で身をまとい.日本の提案を横柄で冷淡な態度で扱い戦争を招いた』

記事再録 英紙『タイムズ』が報道する『日・中・韓』三国志 <日清戦争はなぜ起こっ …

no image
総合ジャーナリズム研究

1 『総合ジャーナリズム研究』  2004年冬号  <NO187 号>   掲載 …

no image
速報(237)『冷温停止のウソを信じて、恐ろしい放射能の危険に目をつぶって座して死を待つのか』2,4号機の反乱

速報(237)『日本のメルトダウン』   ★『冷温停止のウソを信じて、 …