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日本風狂人伝(29) 奇人弁護士のナンバーワンは誰だ・・山崎今朝弥ですね

   

日本風狂人伝(29)
奇人弁護士のナンバーワンは誰だ・・山崎今朝弥

前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
(やまさき・けさや/一八七七-一九五四)弁護士。
長崎県生まれ。明治三十六年に米国に遊学、幸徳秋水らと知り合い、帰国後、弁護士に。大正時代に東京で起きた社会主義者の事件を多数弁護、日本社会主義者同盟、自由法曹団、日本ファビアン協会の結成に参加、反権力を独特のパロディで貫いた。
 
1・・弁護士の奇人ナンバーワンは山崎今朝弥である。
 
 明治四十四年の『日本弁護士総覧』には、各弁護士が法服やフロックコートを着て、威儀を正して写っている中で、なんと山崎一人がすっ裸であった。
 彼は自伝の中で、自らの経歴を次のように紹介している。全く人をくった内容・・・。
 
 「姓は山崎、名は今朝弥、直ちに信州諏訪に生まる。腕白太政大臣に累進し、人民に伍してイモを掘り、明治十年、逆賊西郷隆盛の兵を西南に挙ぐるや、君これに応じて実に清和源氏第百八代の孫なり。幼にして既に神童、餓鬼大将よ大いに世にはばかる。
 
車を押し、辛酸をなめつくす。かたわら経済学を明治大学に修め、大いに得るところあり、天下嘱望す。不幸、中途試験に合格し、官吏となる。久しく海外に遊び、ベースメント・ユニバーシチーを出て、欧米各国、色々博士に任じ、特に米国伯爵を授けられる。誠に稀代の豪傑たり。
  明治四十年春二月、勢いに乗じ、錦衣帰朝、一躍直ちに天下の平弁護士となる。君、資性豪放細心、すこぶる理財に富み、財産合計百万ドルを号す。
 
  即ち業を東京に興し、たちまち田舎に逃亡し、転戦三年、各地を荒し、再び東京に凱旋し、爾来しきりに振わず、天下泰平会、帝国言訳商会、私立天理裁判所、軽便代議士顧問所、各種演説引受所等は、皆君の発明経営する所なり」
 
この内容を京大教授の多田道太郎は、「そのレトリックからいっても、日本に稀有なヴオルテール的知性だ」と絶賛した。
 
 一九〇一(明治三十四)年に山崎は検事代理として、甲府地裁に赴任した。翌日、直ちに公判に立ち会った。上席検事に裁判の手続を教わろうと思っていると、「何でもない。出ればわかるよ」と言われて、出廷した。
  取調べがすんで、判事がテーブルの上に両手をついて「検事閣下、刑の適用は?」と山崎検事に聞いた。山崎は何をどうしていいのやらわからず、ポカンとしていたが、そのうちに心臓が波打ち、顔に火がつき、「僕はわかりません」と言って、公判廷を逃げ出した。以後、検事をやめて、弁護士になった。
 
2・・日本のヴオルテール的知性
 
 山崎は弁護士生活四十数年の間に、反体制主義者のパトロンとなり、主義によって区別せず、大逆事件、朴烈事件、難波大助の虎ノ門事件の三大大逆事件を手がけるなど、社会主義者の事件を一手に引き受けた。
 ところが、社会運動では一度も警察に引っぱられず、「裁判官の低脳化石論」で筆禍を起こした以外は、お手のものの交番前の立小便で、一度五十銭の罰金をくっただけであった。
 
 山崎はあの稀代のパロディスト・宮武外骨とそっくり。明治、大正、昭和の暗黒時代をしたたかに生き抜いた数少ない反体制自由主義者の中でも最もユニークな自由人であったーと評論家・青地農は高く評価する。
 山崎は自らを社会民主主義者、無政府主義者、民主主義者のすべてである、と周囲をケムにまきながら、奇人、変人の煙幕で時代の凶気からスルリスルスルと身をかわした。
 
 
 明治大学で法律を学び弁護士になった後、米国へ渡ったが、法律はやらずに、マッサージや心霊術を覚え、三年ほどで帰国した。「米国伯爵、法学、哲学、医学博士、其他色々、財産合計百万ドル余あり、英独仏語に通ず、未婚者」とのケッサクな名刺を作り、以後〝米国伯爵″を名乗った。
 
 自由の国・米国には、もちろん貴族制度などなく、暗に、日本の天皇制の階級社会を批判した内容だが、財産百万ドルというのも欲の皮の突っぱった連中への目つぶしであった。この中で、本当のことは未婚者だけであった。
 山崎は真正面から〝大日本帝国″と勝負したのではなく、斜にかまえ、変化球を多投して、その醜悪さを暴露したのである。
 弁護士・森長英三郎はこの名刺を「自由のない日本で、社会主義者として生き抜くための防弾チョッキであり、身分、特権、権威、国家への勲功、富、ぜい沢など一切を否定する反語であった」と指摘している。
 
3・・パロディ的なコピーを多用
 
 山崎はこのようないろんな名刺を作り、パロディ的なコピーを書いたため、他の弁護士から懲戒の訴えを数多く起こされた。
「元祖世界一専門弁護士・山崎」と書いたあとに、「酒煙草詐欺泥棒茶二金儲ノ類一切不可候」と断り、「喰物弁護士頼ムナ公事スルナ」とあったため、長野県の弁護士から静えられた。山崎は暗に、悪徳弁護士を批判したのである。
この時の山崎の釈明文は、「拝復、さて御照会になった『喰物』とは口へんに食という字で、甘くまいれば飯が食え、まずくなれば飯が食えず、このところが、千番に一番のかね合いに御座候」と、これまたケムにまいた。
 
 また、「売出しにつき、弁護士大安売、平民法律所長、甲府遊廓大門、旧化物屋敷」の名刺を甲府に住んでいた時に作った。〝弁護士大安売り″の、バナナのたたき売り的な文句に対して弁護士の品位を汚すと批判が出た。家主からも「化物屋敷」とは何事かとイチヤモンがついた。
 
 山崎は三十二歳の時に、は一九〇九(明治四十二)年二月に山形さいと結婚した。この時の結婚通知状がまたふるっている。
「旧山形さい、奥州弘前産なりといえども日本語を艮くす。明治三十九年度女子学院の出、元来ヤソ(キリスト教)なり。多弁頓狂にして少々薄野呂の傾きあるも、貞淑人好きにして悪心少なし。最初はなんだか厭の感ありしも、目下は至極結構なり。何一つこれというて、出かすことはなけれども、身体強壮にしてよく食す」
 
 山崎の米国伯爵、英語教授の金看板をみた女学生四、五人が、あこがれて銀座二丁目の路地裏にあった事務所を訪ねてきた。ところが、玄関に現れたのはフンドシ姿の汚ない伯爵だったので、女学生は「キャー」と悲鳴をあげて逃げ帰った。この銀座の事務所の隣には、山崎を監視するために交番所が設けられ、出入りには必ず尾行がついた。
「政府はオレを大臣待遇にして、どこに行くにも巡査がついてきた」と山崎は得意がった。
 
4・・山崎は裸と放屁がお家芸であった。
 
 弁護士事務所で客と話をしている時でも、裸で座布団をマクラに横になり、「ウム、そうか、そうか」と聞いている風で、行儀が悪かった。
 当時、判検事や弁護士には一定の礼服があったが、裁判所控室でも、洋服を脱いで裸になり、テーブルの上に大の字になって昼寝をしていた。
 社会主義者の堺利彦も、「安っぽい半分汚れた白の浴衣に、黒い木綿のオビをぐるぐる巻きにして、時と所を選ばず放尿を連発していた」と紹介、また、もう一つの奇行とは・・
 
鼻クソと鼻毛の鼻クソをほじって玉をつくり、鼻毛を抜いて継ぎ足して、六〇センチほどの長さにする。
 鼻クソをその先端につけ、今度は逆に下の方から鼻毛を1本1本とって、最後にさも大きな鼻クソを無理やり鼻に押し込むポーズでケロッとしてしめくくるーといったもの。
 
もう1つのクセが「ニギリキン」だと作詩家・西条八十は書いている。「二ギリキン」とは、言葉の通り、キンクマ (睾丸)を握りながら、人と接すること。
「寒くなると、先生はニギリキンをするようであった。初めは『どうも失敬な……』と思いもしたが、後には先生がユーモラスに、可愛ゆく、敬愛すべき人物に思われてきた」 
また、別の人物の回想には、アメリカ時代の山崎について「ある時、山崎は小さなナベのぬるま湯にペニスをつけて洗っている。それが終わると、再びガスに火を点じて、煮わかし今度はそのナベを取って、湯気をふきふき飲みはじめた。見ていた者が見るに見かねて『汚ないマネはよせ』と叱り飛ばしたが、山崎は『何が汚ない。煮わかしたから清浄な水だ』といったので、返す言葉もなかった」という。
 
5・・山崎の借金取り撃退法。
 
 明治四十年ごろ、山崎が一番貧乏していた頃。赤坂で「法律文学」という雑誌を出していた。借金取りがくると、山崎は真っ裸になって、四つんばいになって犬の鳴きマネをした。借金取りは「こいつは頭がおかしくなったのか……」と驚いて退散した。こうして、借金を踏み倒していた。
 
 
 山崎は友人から借金の保証を頼まれると、よしよし、とすぐ引き受け、簡単に実印を押した。あまりに簡単に押しっぷりがいいので、ある男が虫眼鏡で、実印をよくよく見ると、「連帯保証無効之印」と彫ってあった。
 
 山崎は、一九一三(大正二)年、二月に山崎一人が代表者となり「日本社会党」の結社届を出した。社会主義団体に政府はきびしい弾圧を行い、それまで「日本社会党」「社会党」「独立労働党」などの結社はいずれも禁止となっていた。
 
 ところが、山崎の日本社会党は禁止にならなかった。社則では第一条「名称は日本社会党とす」、第二条は「目的は憲政を促進し、普通選挙の実行を期す」、第三条は「以上」とだけしかなく、山崎は自ら日本社会党総裁を名乗ったが、それ以外は党員なし。片山潜が入党を申し込んできたが、これも断った。
  当局も「山崎が当局をわずらわせるために届け出たもので、有名無実の組織」として無視。ところが、山崎は日本社会党総裁として原敬、加藤高明、犬養毅らに〝総裁会議″の招集状を出していたが、これまた無視された。
 
大逆事件の幸徳秋水、宮下太吉、新村忠雄ら死刑になった連中と山崎は友人で、特に宮下は甲府にいた山崎の家を二度訪れていたが、幸い二度とも山崎は不在であった。このため、大逆事件には連座せず、危機一髪で難を逃れた。
 
 日本最強の弁護士は正木ひろし http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=270
 

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