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日本リーダーパワー史(76)辛亥革命百年(14)中国革命の生みの親・孫文を純粋に助けたのは宮崎滔天

      2017/12/04

             日本リーダーパワー史(76)
 
辛亥革命百年(14)中国革命の生みの親・孫文を純粋に助けた宮崎滔天
                           前坂 俊之(ジャーナリスト)

滔天の妻、ツチの苦労

 
 宮崎滔天が一九〇九年(明治四十二年)に家族のために書いた「家憲十則」(全集第五巻)の冒頭の第一別に「予の一身は先輩知己友人の同情によりて立つ。衣食も亦これに頼る。諸君我が家に生存する亦実にその鎗樺に外ならず。されば諸君も之に鑑みて他人に対して人情を放くべからず。同情に生きるものは人情に死すべきものと知れ」と述べている。
この〝十則〟は旅先で手元不如意の時期に書かれ、留守宅に郵送されたものだけに、「いい気なもの」といわざるを得ない感じもしないではない。事実、彼は革命のための資金集めはしても、家計のために収入を得る努力をほとんどしなかった。そのあおりを受けて、身を粉にして子を養い、家庭を崩壊から救ったのは、妻のツチの仕事だった。
 ツチは「熊本まで出るのに他人の田地を踏まずに行ける」といわれた玉名郡小天の豪農、前田家のお嬢様だった。ところが滔天と結婚し、子どもが増えるのに収入はない。ツチはまず家の近くの荒尾の浜辺で貝殻を焼き、石灰を作っては売った。後年、この時の苦労を思い出して
 此の身これ奇しき嫁しにむすばれて舌の貝殻のなさけに生きつ、
 むせびつ、灰煙に逢われまた帰る浜滋に一人白虎とたたかふ
 かかるわざ知るもまづしき時の徳逢わるる家政に徳のあまたを
 などと詠んでいる。
 こんな重労働は、さすがにお嬢さん育ちには無理。次は荒尾の居宅を売り、ツチが熊本で下宿家を開くが、集まるのはいずれも金をもたず、酒食をともにしながら天下国家を論ずる滔天の仲間ばかり。
すでに孫文を知り、革命運動しか眼中にない滔天は東奔西走。その孫文はそれより早く(一八九七年十一月)滔天とともに荒尾にきて、ツチの心づくしのもてなしを受けたことがあり、宮崎家の苦しい家計を知って滔天に内緒で時おり送金してくれた。これについて、やはり後年の短歌でのツチの感想は
  ふり来る人のなさけほうるおひの春が洞こそ夫につづくや
 ツチは一九一二年、孫文の中華民国臨時大統領就任を祝うため、単独で南京を訪れている。
「亡夫滔天回顧録」 には、孫文が荒尾に来た時は「今のように支那料理のしかたも知らず、田舎式の日本料理でもてなすしかありませんでした。
刺身やみそ汁や煮魚や、お寿司や鰻や出来るだけの努力を払ってありつたけの御馳走をしました。孫さんは、このなかでウナギと鶏とが一番好きのようでした。
孫さんはこれは如何ですかと勧めると、いやなものがあってもただニコニコして、オーライ、オーライと領きながら食べておられました。
なれない刺身を食べて下痢をされた様子でしたが、臨時大総統になられたあと、私が祝詞をのべにお訪ねした時に、荒尾の刺身はうまかった、といわれたのも、孫さんが過去の苦労をしみじみと偲ばれた言葉だったのです」
と書いている。
ツチは結婚前に大阪のミッション・スクールに通ったこともあり、孫文とは英語で話すこともあったようだ。
内職の話にもどる。身体をこわして入院したりという苦難の時期をへて、実家の援助を受けて乳牛を飼っての牛乳配達。東京に移ってからは社会運動家の福田英子 (田中正造秘書) の好意でミシンを借りての水兵服縫製と続く。これもツチの歌で振り返ると
  悠々とさわがぬ牝牛したしみつつかむ乳房に手免しびれぬ
  尊かれ学ぶみしんのはぐるまをふむもまわらねせ帝なるかな
 さすがに、治夫に対する愚痴も出る。
  遊び女や酒にかわる、財あるも妻子にめぐむ財はあらずと
 だがツチは 「財欲をこそ忘れて生まれしわが夫」を信じて、みずからもまた隣国の革命への支援に力を尽くす。
  命の志士の洞はあふれけり流れ速まくよふす江(揚子江)の水
 甘さむべき時の声こそゆ、しけれ東風ぞ流して大陸ゆるぐ
志を抱いた浪人
 生涯一度たりとも職らしい職につくことなく革命家として、孫文の辛亥革命の成就を助けた宮崎滔天は四十四歳の時、自らの半生を振り返ってこう記している。
「過去二十五年の乞食(こじき)生活中、その半分を高等乞食で暮らし、その他を軽便乞食で暮らし、この二、三年はまた高等乞食に戻った」。
 いささか、とうかいした言い回しだが、五十二歳で亡くなるまで滔天は浪人に終始し、中国革命のために奔走し、途中で革命の資金稼ぎと同志を募るために浪曲師となったが、志行を貫き通した。任侠に生き、革命浪人を自負した滔天は自身を乞食生活と自嘲気味に書いたのである。
 しかし、乞食(こじき)にも種類がある。
滔天流の乞食哲学にしたがえば、世の中にゴロゴロいる、単に食えないためにする乞食は「一般的乞食」であり、これは論ずるに値しない。
 彼のように「志」を抱いて、天下のため、人々のために何ごとかを成さんとして、友人、知己、知り合いに寄食するのが本物の浪人のことであり、「高等乞食」と称していた。
 その中間にいるのが「軽便乞食」であり、志のためにやむを得ず金もうけをおこなう、彼のように浪花節をやりながら、目的を達成しょうと狙っている者たちのことであった。
極度の貧乏に追われる浪人暮らしに耐えながら、中国革命成就のために全て投げうって孫文を助け、ついに革命は成功する。孫文は中華民国誕生の「国父」とたたえられているが、孫文が中国革命の父とするなら、滔天はその生みの親とも言うべき存在である。
 
宮崎家は稀有な「自由民権一家」であった。
 宮崎滔天は一八七〇年(明治三)十二月、熊本県玉名郡荒尾村(現・荒尾市)で、村一番の名家・宮崎長蔵の十一人兄姉(八男三女)の末っ子として生まれた。名を寅蔵という。通称・滔天はその後「白浪庵滔天」と自らつけた雅号からきている。
二天一流の剣道家として知られた父・長蔵は幼少期、滔天の頭を毎日なでながら、「豪傑になれ、大将になれ」と繰り返した。「金銀、お金に手を触れるのは、いやしい行為だ」と教えた。貧者には「施せ」という家訓を残した。
母も「畳の上で死ぬのは男子の恥だ」と諭した。周囲の人々はみな「西南戦争の指導者の一人として戦死した長兄・八郎のようになれ」と口を揃えた。このため物心もつかぬうちから、滔天は官のつく人間は泥棒か悪人で、賊軍とか謀叛(革命)は大将や豪傑が行なうものとの考えを叩き込まれた。
この宮崎家は“明治の奇跡”ともいわれる「自由民権一家」である。長男の八郎は明治三年に上京し、新政府の専制政治に怒りを感じ、中江兆民訳「民約論」に感激して、植木学校を作るなど自由民権運動にのめり込んだ。「九州のルソー」に例えられた人物で、明治政府を激しく批判し、西南の役では西郷軍に身を投じた。
陣中に中江兆民が訪れ「西郷は自由民権主義ではない、一考せよ」と忠告したが、「西郷に天下をとらせて、そのあとまた叛反を起こす」と答え二十七歳で戦死した。滔天が八歳のときである。
兄八郎の生き方に凝縮された自由民権の思想、官職を拒否して革命を企てる豪傑、大将になること、畳の上で死ぬな、という宮崎家の哲学が滔天を革命家一筋の道を歩ませていくことになる。
滔天の兄姉は夭折したものが多かったが、残った二姉二兄のうち、上の兄・民蔵は十五歳で地主制度による小作人の貧窮に心を痛め、自由民権と同時に土地という不平等を解消すること、天から与えたれた土地は人類の基本的な人権の一つではないかと考えるようになった。
社会主義的な思想の先駆けだが、土地の平等な配分、土地問題を志して「土地復権会」を組織、明治三十年から四年間、同志を求めて欧米各国にも遊説して回った。英国では社民党のハイドマン、自由党のロイド・ジョ―ジ、米国では社会労働党のドゥ・レオンらに会い識者の意見を聞いた。
下の兄・弥蔵はまず中国に革命を起こすことによって西欧列強の植民地支配からアジアを開放していくことを念願し「革命的なアジア主義」を唱えて奔走した。有名な「自由民権の三兄弟」である。滔天は弥蔵からも大きな影響を受けた。
 このように滔天が中国革命を目指すきっかけは、宮崎家の家風、兄たちの強い影響があった。十九歳の時、郷里の荒尾にある四ツ山という小さな山の上で民蔵、弥蔵、滔天の三兄弟と近所の青年たち六、七人が集まり、数日間にわたって日本とアジア、世界をどうするか、天下国家を論じ尽くした。
結論は二つに分かれた。貧しい人たちを救い、アジアを救うためには、まず「中国革命を実現しアジアの革新へつげるしかない」という弥蔵やそれに共鳴する滔天に対して、民蔵らは「中国革命など不可能。日本を改革するためには、まず土地改革をやらねばならない。土地は人間が私すべきものではない。人民に土地を均等に分けるべき」と主張した。
この「四ツ山会談」以後、宮崎三兄弟はそれぞれの思想の実現、成就に邁進した。民蔵は土地改革運動で米国、英国などを回って「土地復権同志会」を組織し、土地均分論を唱え、弥蔵、滔天は中国革命運動の実践に入った。
 二人は手分けして、弥蔵は中国語を覚えるために、横浜にあった中国人商館のボーイになり、滔天はタイへ移民二十人を連れていって開墾して、革命の資金作りを行うことになった。
 幕末、維新の志士たちと共通する明治の青年の直情径行さ、アジア、中国大陸への熱い思い、無私なる行動は驚くべきものがあるが、その奇跡ともいうべき存在が「宮崎三兄弟」であった。
貧乏どん底の革命支援
一八九五年(明治二十八)末、移民団を率いてタイに渡った滔天は約二年間、悪戦苦闘するがうまくいかず、コレラにかかって医者から死の宣告を受けた。
 同志が集まり、「死んでから告別式をやるんじゃなく、生きているうちに永別の宴をやろう」と滔天の病床を囲み、ビールを飲み、詩や歌を朗々と吟じ始めた。
 やせ細り、青白い顔の滔天が病床から身を起こし、「同志諸君、これが最後だ。今生の名残りに好きなビールを飲みたい」といい、コップに並並とつがれたビールを一気に飲みほした。
「これで成仏できる」と満足そうに滔天はまた横になったが、そのうち顔に赤みがさし、血の気がよみがえってきた。「元気が出てきた。ビールは起死回生の妙薬じゃ。もう一杯」と滔天はさらに続けて飲むと、いっそう元気になり、死ぬはずが生き返った。
 まるでウソのような話だが、滔天は九死に一生をえて帰国する。
一方、弥蔵は病弱な体をおして中国革命を達成するには中国人になりきらねば、と頭をそって弁髪し中国服を着て中国名「管仲甫」とに改めて、横浜中華街の中国人商館に入って活動していたが、一八九六年(明治二十九)七月に二十七歳で急死した。危篤の報に滔天が駈けつけた時にはすでに死亡していた。弥蔵の遺書には和歌一首だけがしたためられていた。
  「大丈夫の真心こめし梓弓、放たで死することのくやしさ」
 志途中で死ぬ悔しさを歌っているが、滔天はこの兄の中国革命への志を何倍にもして引き継いでいく。弥蔵が接触していた中国革命家・陳少白を探し出した滔天は「兄と私は同じ考えです。まず中国で革命を達成し、日本でも革命を起こし中国を拠点にアジア、世界を解放するのが、私の願いです」と述べて互いに手を携えていくことを誓った。
ところで、孫文は中国・広東の出身で十二歳でハワイに渡り、ホノルル高校を卒業後、香港で医学を学びマカオで医者を開業した。清朝の圧制による人民の貧困に憤り、革命運動に身を投じ、革命組織「興中会」を結成した。日清戦争後、広州で最初の挙兵を行ったが失敗し、アメリカ、英国に亡命したが、ロンドンで中国公使館に監禁され、二週間後にやっと救出された。
 その時の模様を「Kidnappedin London」(ロンドン被難記)と題して出版し、ヨーロッパや日本など各国版に翻訳され、一躍、革命家・孫文の名が世界中に知れ渡った。明治三〇年八月、ロンドンを離れた孫文は革命の拠点を密に日本に移した。
その頃、滔天は知遇を得た犬養毅から外務省の支那秘密結社の調査員を紹介され滔天、平山周の二人は中国にわたった。そこで孫文が横浜の隠れ家にいるという情報を聞いていて、帰国した滔天は、孫文に会いに行った。
 同年九月、滔天は横浜で初めて孫文に会った。大陸風の豪傑を想像していた大男の滔天は自分とまるで反対の身長わずか百五十六㌢のきゃしゃで紳士的な孫文に失望した。対座した孫文は寝起きのままの姿で口も聞かず、挙動に重みがないので滔天はがっかりした。
豪傑を期待していた滔天には物足りなかったが、問いに応じて中国革命の方法や目的を語り出すと、初めは処女のようだった孫文はいつしか脱兎のような勢いついには猛虎が深山で吼えているように見えてきた。
孫文の答えは簡潔だが要点を押さえ、道理にかなっていた。滔天は孫文の革命家としての見識とその人物に一度に敬服した。
「私は恥ずかしく思った。孫文のような人は天真の境地に達しており、その思想の高尚さ、識見の卓抜さ、どれをとって日本人にはいない。実に東亜の珍宝であり、私は彼に傾倒するようになった」と『三十三年の夢』で書いている。
この時の二人の会談は筆談で行われた。孫文は英語は堪能だが、日本語はダメ。滔天は英語はダメだが、漢文なら書ける。二人の意思の疎通ができる漢文を使っての筆談で、半紙に主に毛筆で書き続けられた。
その漢文も中国語の文語体での筆談だった。この時以来の孫文と滔天の会談は漢文による筆談で行なわれ、この記録の一部は今も宮崎家に残されている
。外務省には「報告書の代わりに見本を一匹連れてきた」と孫文を紹介した。
以後、約十年におよぶ孫文の日本亡命中、滔天はつねに身元引受人的な役割を果たして、武器の調達からほう起の活動など革命実現のためのあらゆる援助、行動を惜しまなかった。辛亥革命の前後の困難な時期を通じても二人の信頼関係は揺るがなかった。
孫文は号を「中山」と称して、宿帳には日本名で「中山樵」と書いたり、自ら「孫中山」と名乗った。このいわれは孫文と滔天ら三人が宿泊先の旅館に向かっていた際、清朝政府から指名手配されており、本名を書くわけにはいかない。ちょうど中山公爵邸宅の前を過ぎた所で孫文が「これがいい、中山だ」とこれを拝借して宿帳には「中山樵」と記した。
この名を孫文は気に入り、自ら「孫中山」を名乗るようになった。「中山先生」は孫文へ敬称となり、いまも中国各地に「中山路」「中山公園」などの名が数多く残っている。
 孫文の三民主義、共和主義、アジアを侵略する列強への憤り、人類同胞主義などは滔天の思想とピタリと一致した。兄・民蔵の土地復権の、嘉と孫文の民生主義の「平均地権」はうり二つのものであった。
 以後、滔天は孫文の革命運動の絶対的な支持者として、犬養にも紹介し、二千円をカンパするなど、すべてをなげうって献身的に応援した。
ところで、滔天は当時としては百八十㌢近い身長のとびっきりの大男で、風貌魁偉で、顔は髭だらけで、いつも背をかがめて鴨居をくぐるのが癖で、しかも髪を腰まで伸ばしていたため、その少しはにかんだ表情と相まって、日本人離れした顔立ち、風体の際立って目立つ男であった。
アジアを股にかけていた滔天は、外国人から聞かれると「父は中国人、母は日本人、祖父はインド人なり」と自らを説明していた。
 その上、「ボロ滔天」とのニックネームで 呼ばれたほど、全く身なりにかまわなかった。それというのも金がなかったせいだが、何年も洗っていない和服を着て、その袖はいつも鼻をかんで拭くためテカテカに光っていた、といわれる。
 旅館や待合を定宿にし、革命談義で飲み明かし、飲み代や宿泊代の借金を踏み倒したりすることもしばしばだったが、人気があり、芸者や女将には大変もてて愛人が多かった。革命支援の滔天の志に打たれて、カンパする芸者も少なくなかった。
 滔天は、生涯、酒を愛し、浴びるほど洒を飲んだが、それとは反対に金には恬淡としていた。それ以上に、金銭を全く汚らわしいものとして、財布を一切持ったことはなかった。
金銭という文字を書くことまでも嫌い、「新郎」(後から付いてくるもの)と書いたほどだった。父・長蔵は子供たちに幼い時から「金は阿堵物。男子は金などに心を奪われてはならぬ」と固く教えていた。滔天にはそれが染みついていた。革命に没頭した滔天は、家庭のことはまるで眼中になかった。定職がないので収入はない。財産を叩き売り、売り食いでつなぎ、知人、同志、縁者、芸者、愛人からのカンパ、支援でしのいだ。
 フィリピン独立蓮動へ武器供給のために船をだして沈没したり、孫文が中国で革命をおこすための軍資金、武器の調達に走り回り、同志を募った。
 もちろん、家計は火の車だった。妻の槌子が思い余って相談すると、「革命のための金はできるけれども、妻子を養う金はない。お前で何とかしろ」と一向に顧みなかった。
 槌子は前田案山子の三女で、前田家は「他人の土地を踏まずに熊本までいける」と言われたほどの熊本で有数の資産家であった。その前田家や宮崎家は先祖伝来の土地、田畑、屋敷、骨董類も次々に売り払い、そのすべてを滔天の活動費につぎ込んだ。
 苦労知らずのご令嬢から、革命家の妻となった槌子はいきなり貧乏のどん底にたたき込まれた。生活のために必死に働き、三人の乳飲み子を養育しながら、滔天の革命資金作りに奔走して、夫を支えた。
 熊本で初め、慣れぬ下宿屋をしていたがうまくいかず、次は石炭の小売り店、石灰屋、牛乳屋と転々と商売替えしながら 身を粉にして働き、がんばったが、病苦で倒れることが何度かあった。
 しかし、どの商売もうまくいかず、結局、子供を連れて夜逃げ同然で上京した。滔天一家は生涯、貧乏から離れられなかった。滔天がタイに行っている時、生活に困った槌子が手紙で窮状を訴えると、滔天は「貧乏はわれわれの身についた病気でなかなか治らない。貧乏はわれらに当然とあきらめ下され」と慰めともつかぬ返事を出している。
 
浪曲師になる
一九〇〇年(明治三十三)六月、滔天は孫文の第二回目の挙兵の準備のためにシンガポール に渡るが、ここで投獄され五年間の追放処分をうけ、帰途に立ち寄った香港でも同様の処分をうけた。十月に孫文は中国・恵州で挙兵したが、再び失敗する。
革命蜂起にことごとく失敗し、滔天は失意の底に落ちた。一九〇一年(明治三十四)これに輪をかけた貧苦が重なり、どうしようもなくなった時、突然、滔天は浪曲師になると宣言した。浪人界からの脱落宣言であった。
滔天は犬養毅のところへ相談に行くと、「考えて置く」といって、後で長い手紙で、「止めよ」という。その後、頭山満のところへ行くと、「よい思いつきじゃ。貴様なら出来るだろう。やるがよろしい。賤業でも何でも、自分で働いて生きて行くのは、何よりよいことだ」と賛成する。そこで滔天は腹を決めて、雲右衛門のところへ行った。
 兄・民蔵、槌子には「浪人の身で、他人の世話にならずに家族を養っていくのは難中の難事だ。食っていけないといっても商売もやれず、商売をやっても士族の商法で金にならず。歌って客の喜捨をうけることは、卑しいことではあるまい。歌をうたえば憂さばらしにもなる。しばらく坊主になった気で、浪花節の弟子入りをしようと思う」
と打ち明けたが、二人とも仰天し、必死になって、思い止まるように説得したが決意は固かった。
 滔天は浪人はやめると言っても、志を変えたのではなかった。軍費を調達し、同志を集めるには浪曲師となり、全国を回り、金をつくり、それを木の葉のようにまき散らして、「天下をとってみせてやる」と意気軒昂であった。
 桃中軒雲右衛門の門に入って、桃中軒牛右衛門を名乗り、自らの体験や政治についての自作浪曲「落花の歌」を語って、大正初年ごろまで高座に立った。当時、人気随一の桃中軒一座は全国を巡業して回っていたが、大変な人気であった。
「落花の歌」はー。
「一将功成りて万骨枯る、国は富強に誇れども、下万民は膏の汗に血の涙、
飽くに飽かれぬ餓飢道を、辿りくて地獄坂、
世は文明じや開花じやと、汽車や汽船や電車馬車、
回はる轍に上下はないが、乗るに乗られぬ因縁の、からみくて火の車、
推して弱肉強食の、剣の山の修羅場裡、
血汐を浴びて戦うは、文明開化の恩沢に、漏れし浮世の迷ひ児の、
死して徐栄もあらばこそ、下士卒以下と一と束、
生きて帰れば飢に泣く、妻子や地頭に責め立てられて、
浮む瀬も無き窮境を・・・・・・」
 滔天は「新浪花節」として、自らが経験した政治講談を、名調子とはいかないが唸っていた。しかし、熊本なまりの強い滔天には、東京弁のタンカは切れない。武士や子供の声色も使い分けねばならず、うまくいかなかった。しかも、口下手で小心な滔天は出演の前には食事もノドを通らず、口演時間が近づくと緊張で心臓がバクバク破裂しそうになり、酒をあおって出ることが多かった。
客席はいっぱいというわけではなかった。客足も滔天の下手な口演で、ガラガラの日が多く、収入は一日わずか四十銭ほどのことも。名の通った福岡や九州ではいざ知らず、関西では滔天の知名度は今ひとつ。大阪では閑古鳥が鳴いて、着て出る衣裳もない。知り合いの政治家に無理やり頼んで羽織紋付、下着、ジバン、オビ、袴まで新たらしいのを貸りてやっと講演に出たかと思うと、神戸では全然受けず、滔天一座は、コソコソ岡山へ夜逃げ同然に消えていったことも。三度の食事を一回で済ませたことも度度あった。貧苦よりの脱出は容易ではなかった。
中国革命の夢、成就する
 家族は明治三十八年(一九〇五)二月に上京し、東京新宿・番衆町に滔天と一緒に暮らしていたが、この頃から中国人の留学生が土曜日、日曜日などひっきりなしに滔天を訪ねてくるようになる。
 ちょうど、二年前に三十三歳の滔天は半生を振り返って中国革命の自伝『三十三年の夢』を書き、出版され、翌年、この中の孫文の部分が中国語訳「孫逸仙」として、また、全訳「三十三年落華夢」が本国で相次いで翻訳出版された。
 この結果、中国の知識人、留学生の間で初めて孫文の存在が知られてきたのであった。中国国内では、それまで孫文について書かれたものはなく、「広州湾の一海賊」といったぐらいの認識しかなかった。滔天の書によって初めて革命家・孫文の実像が、広く中国で知られるようになったのであった。
 日清戦争で敗れた清国は明治二十九年に官費留学生十三人を初めて日本に送りこんで以来、その数は毎年急増して、明治三十七年には官費、私費留学生合わせて二千四百人、翌年は八千人、そして最高の一万二千人と急増した。こうした留学生の中で、革命に関心を持った学生や亡命してきた革命家が次々に滔天を訪れ、滔天はその留学生たちに革命への熱い情熱を吹き込んだ。
 わずか四畳半、六畳の二部屋しかないような狭い滔天のボロ借家に家族五人のほか居候、食客、留学生、亡命革命家ら次々に転がり込んできた。
 家はいつも人でいっぱいだったが、風呂を沸かす燃料を買う金もないため、長男龍介(後の東大新人会リーダー)ら子供が近所にたきぎを拾いに行ったり、お客に出すお茶にもこと欠くありさま。息子・龍介が証言する。
「父はすこぶる酒を嗜んだ。時には日本側の同志ばかりで飲み、時には支那の同志もうち混って、朝から痛飲することもあった。月末には米屋に支払う金が無くても、無理算段をして、なにがしかの金を酒屋には入れた。たまたま支那から老酒の土産を貰うと『これで天下が取れる』と云って、大笑した。
壁のはがれた借家の床の間に老酒のかめを置いて、時時そのかめの横腹を拳で叩いては『まだある、まだある』と云って楽しんでいた。しかし酒とは反対に金銭はひどく卑んだ。金銭を懐に残すことは『町人の仕事』だと云って軽蔑した。
父は外出するにもおそらく、一円以上の金は持っていなかったであろう。父が生涯赤貧をもって終ったのも、極端に金銭を卑んだがためである」(「文芸春秋」一九三八年六月号)と述べている。
 こうした滔天の潔癖のゆえに、龍介は中学から高校時代まで、いく度となく、月謝未納の掲示を出された。こんな時、母は、自分の衣物を質屋に運んで月謝に変えた。
「第六天町での父の生活は、やはり陰謀と貧困の連続だった。一年足らずのうちに、米屋や酒屋の支払いはだんだんと苦しくなった。もちろん家賃をやである。しかしこの第六天町の生活で、最も感謝すべきことは米屋は別として、洒、味噌、醤油、薪炭などを運んでくれていた三伊の主人である。彼は義侠的な変り者で、支払いが数百円に嵩んでも少しも催促しない。それに小僧の政君、小僧と云っても十八九の若者だったが、毎日酒徳利を入れる小桶を地り出しては、僕らと一緒に撃剣をやる。そして時間を忘れ日暮れてから帰って行く」
 しかし、中国革命の気運はうねりのように高まってきた。帰国した留学生たちは、「華興会」(黄興、宋教仁ら湖北・湖南省出身者を中心にした団体)「光復会」(察元培、秋理らは漸江・江蘇省出身者を中心の団体)など中国各地に革命団体や革命結社を結成していった。
 亡命して日本に逃げてきたこうした革命家リーダーの黄興、宋教仁、章柄麟らが滔天の家に足しげく訪ねてきた。いわば滔天の家が中国革命家の溜まり場となり、中国革命の参謀本部の役割を果たすようになっていった。
 こうした中国からの亡命革命家や帰国した留学生たちは自国では横の連絡は全くなかったが、滔天の家で孫文を頂点にいろんなメンバーが出会い、そうした連中を滔天が庇護し、指導し大同団結させることになった。中国革命をめざす諸連合を統一させる、いわば仲人役,産婆役を果たしたのであった。
滔天が浪花節語りになっていた時、中国革命への貢献に敬意を表するため楽屋へ訪ねてきた黄興を知っていた。滔天が黄興という偉い人がいるというと、孫文は「これからその人を訪ねよう」といい、滔天が連れてくるといっても「そんな面倒は要らぬ。これから二人で行こう」と神楽坂付近の黄輿の止宿先に出向いた。滔天が表から「黄さん」と声を掛けると、黄興と、当時そこに同宿していた滔天の友人の末永節が顔を出す。
ほかにも学生たちも集まっていたので、当局の要注意人物の孫文を家に上げるのはやめて、近くの中華料理店(鳳楽園)へ孫、黄、滔天、末永、黄興側近の張継の五人で出かけた。「彼らは初対面の挨拶もそこそこに、すでに旧知のごとく、天下革命の大問題を話し始める。僕ら(滔天と末永)は、中国語を十分理解する力がないのでそばで酒を飲んでいると、孫文と黄興は二時間ほど酒にも料理にも口を付けずに議論していたが、ついに話がまとまり、祝杯を挙げた」。
(一九一六年(大正五年)に行われたと見られる座談筆記「宮崎泊天氏之談より」
話とは、孫文の率いる興中会と、黄興の率いる華興会が合同して、清朝打倒のために統一した革命運動を展開することだ。まず黄興が在京の中国人留学生に呼びかけ、数千人を集めて孫文歓迎会を開いた。相前後して内田良平宅(黒竜会本部、東京・赤坂) での設立準備会議、坂本金弥宅(東京・赤坂) での中国同盟会創立へと進む。輿中会、華興会のほか、反晴民間団体の光復会なども加えた反体制派の合同である。これらの会合に、治夫はメンバーの一人として出席し、歓迎会では来賓としてあいさつした。設立準備会議は人が多すぎて床が落ちたといわれる。
一九○五年(明治三八)七月、ヨーロッパ外遊から戻ったばかりの孫文に滔天は黄興を紹介、両者に大同団結の必要性を説いた。席上、孫文と黄興はすっかり意気投合、興中会と華興会を母体に他の革命団体をもまじえた統一的な組織、中国同盟会をつくることに同意した。
 八月二十日、東京赤坂の政治家・坂本金弥宅で孫文の興中会、黄興の華興会、光復会の革命三派が合同して「中国同盟会」の創立総会が開かれた。
孫文の、民族、民権、民生の三大主義(三民主義)の綱領が採択され、孫文が総理、黄興は副総理格の庶務幹事となり、中国革命の母体が誕生した。三民主義とは①資本抑制(資本主義の弊害を防ぐ)②耕者有其田(土地革命)③耕すものに土地をーである。
ここに中国史上初めて統一的な組織と近代的な革命理論を持つブルジョア革命政党が生まれた。「この日、私ははじめて革命は生涯のうちに成就すると信じた」と孫文は回想する。
  メンバーは当初三百人であったが、たちどころに五千人を突破して名実ともに孫文が中国革命の指導者になった。同盟会の機関誌『二十世紀之支那』が発行されることになり、発行人に宮崎滔天、印刷人に末永節がなる。
このメンバーによって革命への火の手が中国・広東、廉州、広州などで次々に起こされる。この弾薬、武器の調達にも滔天は一家を挙げて全面的に協力した。
 一九一一年(明治四十四)十月十日、辛亥革命が勃発する。孫文の広東蜂起から十六年、失敗の連続で約二十回、清軍に敗れ続けた革命蜂起がついに成功した。アメリカに亡命していた孫文は急速帰国し、中華民国臨時大総統に就任し、革命の基礎が築かれた。滔天の「革命の夢二十五年」はついに成就したのである。この就任式に文なしの滔天は近所の出入り業者のカンパによって出席した。
革命臨時政府は基盤が弱体な革命グループだけで、北方軍閥の袁世凱(えんせいがい)と妥協せざるを得なかった。孫文は四カ月で辞任し、衰世凱が正式に大総統に就任し、南北両政府の対立が激化する。
中国同盟会は国民党に改組されるが、日本政府は衰世凱の北京政府を支持、南京の孫文は苦境に陥る。
袁世凱(えんせいがい)は臨時政府大総統になると、孫文らの南京勢力の壊滅にかかり、孫文や黄興が第二革命の蜂起をする。革命軍はあえなく敗退し、孫文も黄興もまた日本へ亡命、一年前は国賓だったが、今度は日本政府が孫文の入国を認めない。滔天は窮地にたった孫文を、頭山満、犬養木堂(毅)、松方幸次郎(川崎造船所社長)らと協力して救い、亡命を日本政府に圧力をかけて承諾させた。
 孫文らの第三革命が成功し、各地で革命軍が蜂起し袁軍の離反もあいついで、袁世凱は八十三日で退位に追い込まれる。
その後、日本は対中二十一力条の要求などを突きつけて強硬路線をとり、中国は内戦状態に入っていくが、滔天の孫文への支持は終生変わることがなかった。
孫文と争っていた衰世凱から、長年の滔天の中国革命への貢献に報いるため、「米の輸出権の一部を与える」との電報がきたことがあり、「うん」と言えば膨大な利権が入ってくるはずであった。しかし、滔天は即座に「渇しても盗泉の水は飲まぬ」と断ってしまった。
一九二二年(大正十一)十二月に滔天が五三歳で病死すると、翌年一月に孫文が主催する宮崎滔天追悼大会が上海で開かれ、孫文以下国民党の首脳が残らず名を連ねた。「日本の大改革家、中国革命に絶大の功績」と最大級の賛辞が続いた。官職にもつかない外国の一介の浪人に対するものとしては、全く異例であった。
吉野作造は中国革命の支援者には二つのタイプがあり、不純な動機の持ち主、大陸浪人も数多くいたが、滔天は終始一貫、最初から最後まで純粋に心から支援した数少ない真の支援者であった、と賞賛している。
一九二五年三月(大正一四)、孫文も辛亥革命成立一四年後に、六十歳でガンで亡くなった。国父と敬慕された孫文は、南京の中山陵に丁重にまつられている。
 最後の言葉は、「革命尚未成功(革命はなおいまだ成功せず)、同志仍須努力(同志なおすべからく努力すべし)」

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