『オンライン講座/昭和の大宰相・吉田茂のジョーク集』②『歴代宰相の中でも一番、口の堅い吉田じいさんは公式でも突っけんどんな記者会見に終始して、新聞記者と個人的に会談したケースは少ない。『総理番記者』は『新聞嫌いの吉田ワンマン』取材用に誕生した」●「伊藤博文の大磯邸”滄浪閣“を買取り、自邸の『海千山千楼』に改築した。
2021/02/26
2016/02/09 日本リーダーパワー史(659)
『昭和の大宰相・吉田茂のジョーク集』②
吉田は尊敬する伊藤博文の大磯邸”滄浪閣“を買取り、自邸の『海千山千楼』に改築した。
前坂 俊之(静岡県立大学名誉教授)
そのいきさつを土師二三生(毎日新聞政治部副部長)「吉田ワンマンあれこれ」「政治部記者の目と耳」(第2集)に収録、非売品、平成3年刊)で次のように書いている。
吉田ワンマンあれこれ“総理番〟第一号
1947(昭和22)年の2・11スト直前の土曜日のこと。神奈川県大磯の吉田ワンマン邸宅に『朝毎読』の3人の政治部官邸長が取材に行くと、坂本喜代子(本名)さんが玄関に現れてわれわれに軽く会釈した。
総理護衛の坪井警部が、「折角、お越し頂いても旦那さまからきつくいわれておりまして、ごあいさつとおっしゃられても お話しできませんので、あしからず、ということです」
この坂本喜代子こそ吉田首相のいい人だという『こりんちゃん』を見た最初であった。
その前日、林謙治内閣書記官長が「これから吉田総理は、週末には大磯の自邸へ戻られ、火曜日の閣議までに上京されるというこに致しました」という公式発表があった。
内閣記者会の三社の官邸長(キャップ)が話し合いを持った。吉田は21年5月、鳩山パージのあとをうけて総理就任以来、旧近衛邸の荻外荘や大磯の自邸、そして御殿場の知人の別荘など、その居所不定の状態が続いていたが、年明けとともに定めのねぐらを決めることにしたらしい。
そこで三官邸長とも、これからは社会部並みに常時、張り番する必要があるだろうということになり、いわゆる”『総理番』がここに誕生することになった。
われわれ三人は、吉田首相との面通しを断られたあと、私邸入り口右側の民家、通称「粉屋」を首相邸張り込みの拠点として、その二階部分を使用する契約をした。余談であるが、読売はこのあと
「粉屋」との間に(吉田急病などの)非常事態のさいの独占使用の契約を結び、このことを知った毎日は、吉田邸東側海岸寄りの隣家「蜷川新」法学博士の自宅と貸借契約を交すなど、各社が〝臨戦体制“を布いた。
昭和26年の吉田ワンマンは絶対多数の第三次内閣(1951年12月26日―1952年10月30日)の発足以後も、記者団への対応と問答は、まったくゼロに近い。北海道への氷川丸による船旅や総選挙遊説の四国同行など、永田クラブや平河クラブへの接触は数回あったはずだが、公式で突っけんどんな記者会見以外に、吉田が新聞記者と個人的に会談した事実はない。
われわれ政治記者にとっても、『じいさん』(後半期のわれわれの吉田首相への敬称)の生の談話は、なかなか拝聴していない。
「海千山千楼」のいわれ
西武不動産が管理している大磯町西小磯のあの吉田御殿は、吉田の凝り性と思いつきゆえに、何度も増改築を繰り返してきた。おしまいには二階の居室から階下の食堂前にかけてエレベーターをつける計画が、本人の足腰のことを考えて設計されたが、その工事直前に当人が亡くなった。
そして吉田はこの豪邸に「海千山千楼」と名付けた。『ここには海千,山千が集まってくるのでね,( ゚д゚ )』
もともと、ここには吉田が尊敬する伊藤博文の大磯邸”滄浪閣“は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%84%E6%B5%AA%E9%96%A3
があり、戦後堤康次郎が買収していたが、吉田は隣地の所有者でもある堤に話をつけて伊藤の縁故物などをもらい受け、同じ明治の元勲岩倉具視、大久保利通、木戸孝允とともに自邸内の祠(ほこら)に祀って、『四賢堂』と称した(のちに三条実美を入れて五賢堂、西園寺公望が加わって六賢堂にまで拡大されたが、吉田死去後の佐藤内閣時代、佐藤はこれに吉田を追加して現在七賢堂とした)。
吉田は、これら先輩連の別荘の伊藤の” 滄浪閣“、西園寺の興津”坐漁荘“、それに山県有朋の”椿山荘“、自身も住んだ近衛文麿の荻窪”荻外荘“などにあやかりたかった風だが、たまたま大磯が”本宅″であるため、へそ曲がり風にこのように名付けた。御殿正門の冠木門にもこの掲額はない。その代わりに、この『海千山千』を自負したじいさんその人自身が、ちゃんと、この家のいわく因縁を語っているのである。
関連記事
-
-
日本リーダーパワー史(679)日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(58) 『戦略情報の開祖」福島安正大佐ー 明石元二郎の「明石謀略」は裏で英国諜報局が指導、福島、宇都宮太郎(英国駐在武官)がバックアップして成功した。
日本リーダーパワー史(679) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(58) …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(187)記事再録/作家・宇野千代(98歳)『明治の女性ながら、何ものにもとらわれず、自主独立の精神で、いつまでも美しく自由奔放に恋愛に仕事に精一杯生きた華麗なる作家人生』『可愛らしく生きぬいた私・長寿10訓』★『 何歳になってもヨーイドン。私はヨーイドン教の教祖なのよ』★『 人間同士のつき合いは、心の伝染、心の反射が全部である』★『 私は書ける、書けると思って、強い信念をもって書いてみよう』★『 健康法らしいものといえば、一つは毎日一万歩くらい歩く。気が向いたとき、書斎部屋(20畳)のまわりをぐるぐる歩くんです』
2012/11/22 百歳学入門(55)記事再録 作家・宇 …
-
-
日本リーダーパワー必読史(745)★『 対ロシア外交は完敗の歴史、その歴史復習問題) 欧米が心配する『安倍ロシア朝貢外交の行方は!?』②日清戦争後のロシアの三国干渉と遼東半島の武力、 占領支配が日露戦争の原因なのである。
日本リーダーパワー必読史(745) 対ロシア外交は完敗の歴史、そ …
-
-
日本一の「徳川時代日本史」授業④福沢諭吉の語る「中津藩で体験した封建日本の差別構造」(旧藩情)を読む⑤
日本一の「徳川時代の日本史」授業 ➄ 「門 …
-
-
『オンライン/米中日アジア現代ing講座』★『米国の香港国保法への対中制裁<経済金融為替封鎖・5Gファーウェイ締め出し>は戦争に発展するのか』★『2018/12/25 記事転載」歴史は繰り返すのか!『現在の世界情勢は1937年8月の「米欧情勢は複雑怪奇なり」(1939年=昭和14年)と類似』★『この1週間後にドイツ・ソ連のポーランドの侵攻により第2次世界大戦が勃発した★『日本は<バスに乗り遅れるな>とばかり日独伊三国同盟を締結、1941年12月、太平洋戦争に突入する』
2018/12/25   …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(145)再録★『日本世界史(グローバル異文化外交コミュ二ケーション』ー生麦事件、薩英戦争は英国議会でどう論議された③英「タイムズ」
2013/06/24   …
-
-
『 オンライン動画<2012年5月7日・連休!鎌倉カヤック・ハッピー日記>『沈黙の鎌倉海で―「釣れなければよし、生物を殺生するなよ、地球環境破壊の外道たちの未来を考える』★『2021年連休、地球温暖化で鎌倉海の生物は絶滅中だよ,ホントの動画❣・・・』
2012/05/07 <鎌倉カ …
-
-
高杉晋吾レポート④ ギネスブック世界一認証の釜石湾口防波堤、津波に役立たず無残な被害③
2011年3月24日 ギネスブック世界一認証の釜石湾口防波堤、津波に役立たず無残 …
-
-
『 2025年は日露戦争120年、日ソ戦争80年とウクライナ戦争の比較研究③』★『児玉源太郎・満洲軍総参謀長とその懐刀の長岡外史参謀次長のインテリジェンス③』★『満州軍総司令部と大本営間の電報では遅いと九時間半もかかった。』
2010/05/14 日本リーダーパワー史(45)記事再編集 前坂俊 …
