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裁判員研修ノート⑧  冤罪、誤判と死刑を考える②-裁判官と法務大臣の胸の内

   

裁判員研修ノート⑦
冤罪、誤判と死刑を考える②-裁判官と法務大臣の胸の内
   前坂俊之著『日本犯罪図鑑』(東京法経学院出版、1985年)
 
 
裁判官と死刑――裁判官の胸の内
 
 いうまでもなく、死刑は国家による殺人である。一般的に殺人が犯罪として厳重な追及を受け、刑罰を課せられるのに対し、死刑執行だけはそうではない。逆に、戦争は別にして国家に公認された唯一の殺人が、死刑なのである。
 殺人が悪ならば、加害者が個人であれ、国家であれ、許されるはずがない。ところが、個人の場合は悪であり、国家の場合は許されるというのが死刑存置の現状なのである。
 
 この正義と国家の深いミゾ、殺人が悪と善になる一八〇度の矛盾を一身に背負い、同じナマ身の人間に極刑を課すべき義務を負わされているのが裁判官であり、検事であり、法務大臣であり、刑務官である。
 個人の殺人をきびしく追及する故に、逆に極刑を課ねはならぬ宿業の前で国家と良心の板バサミに悩まぬ者はない。
 さて、その当の本人の裁判官はどんな気持ちで死刑判決を下すのだろうか。神ならぬ裁判官が人を裁き、しかも死という絶対的な刑罰を課す死刑制度。裁判官に課せられた任務とはいえ、決して平静に行なえる行為ではないであろう。
 
 死刑について現役の裁判官の発言は紋切型の判決文以外、その心情をうかがい知るものは意外に少ない。判決ですべてを語り、合議の秘密は守るという裁判官の職務上の原則がそうさせていることはいうまでもないが、死刑のおぞましさ、後ろめたさも多分にある。
そこでどうしても、元判事らの回想などを引っはり出すことになる。そうしたOB判事の死刑にかかわった胸の内を聞いてみよう。
 四十年にわたる裁判官生活の最後の札幌高裁長官時代に、最高裁に対して「時の政府から一歩はなれた広い視野と遠い展望に立て」と要望し話題となった横川敏雄氏は、次のように語っている。
 
「わたしは地裁の裁判長時代に一回、強盗殺人・死体遺棄等の罪で死刑の宣告をしたことがあるほか、高裁の裁判長のとき一回、控訴棄却という形で、強盗殺人・放火等の罪による死刑判決を支持したことがある。
いずれの場合も、証拠調べを尽くし、有罪の確信をもっていたが、判決の言渡しの前後それぞれ一週間くらいは、あまり食事も進まず、何かに祈るような気拝だった。同じ人間にこんなことまで許されるのか、とその都度悩むからである。
ただ、死刑にするのは誰がみてもやむを得ないと思われるよくよくの場合なので、このための合議にはあまり時間はかからなかった。(中略)わが国の現状では死刑制度はやむを得ないと思われるが、できればこんな制度はないほうが……というのが、死刑を言渡したわたしの偽らぬ実感であった」(同著『ジャスティス』日本評論社・昭和五五年一二月)
 
 全国裁判官懇話会の第二回会合の代表世話人の一人であった元東京高裁判事、三井明氏もこう答えている。
「死刑はいやです。誰れが見ても死刑より他にないという事件でなければ、死刑はすべきではない。死刑はできるだけ避けるべきだというのが私の考えです。ただ、死刑という制度がある以上は裁判官として死刑を避けるわけにはいかない。 私の死刑判決は二件あります。ある職人が大阪の遊郭の娼妓と仲よくなり結婚しょうとしたら親兄弟に反対され、合計七人を殺した事件です。
 
弁護人は精神鑑定を申請してきた。私はまだ左陪席でしたが、『死刑やむなし』と思っていました。しかし、もし精神鑑定をやって、心神喪失にはならなかったにしても、心神耗弱にでもなっては困るなという気拝がありました。これはもう死刑なんだと、だったらへタに精神鑑定なんかしない方がいいという気持に傾く。結局、精神鑑定申請を排斥して死刑判決を下したんです。いま考えると、精神鑑定をすべきだと思います。悔が残っています」(法学セミナー増刊『日本の冤罪』昭和五八年刊の中の「誤判と裁判官の責任」)
 
裁判官にとっての自由心証主義
 
 裁判官は厳密な事実認定を行ない、それに基づいて量刑を定める。それは裁判官の自由心証主義にまかせられている。
 四九年五月の改正刑法草案で量刑の一般基準が定められた。
一、死刑の適用は特に慎重でなければならない。
 二、刑の適用においては犯人の年齢、性格、経歴及び環境、犯罪の動機、方法、結果及び社会的影響並びに犯罪後における犯人の態度を考慮し、犯罪の抑制及び犯人の改善更生に役立つことを目的にしなければならない。
 
 わが国の裁判官は、最高裁判事十五人を含めて全国の裁判官は二七六一人である。家裁や民事担当もあり、すべてが死刑判決にかかわる刑事裁判官ではないにしても、これらの裁判官が死刑についてどのような考えを持っているかは容易にわからない。
ただ、戦後の量刑傾向が大幅に寛刑化していることをみれば、裁判官の死刑観、刑罰観が浮き彫りにされてくる。
 強盗殺人に対する死刑・無期適用率は約五年きざみで昭和二三年~二五年は死刑一二・七%、無期三六・六%だったのが、五〇年~五五年では死刑七%、無期四九・八%となっており、死刑適用率は戦後約三十八年間で三分の一に減少している。
 さらに死刑の選択も大幅に減少しており、このまま進めば、死刑廃止に踏み切らなくても内部的には死刑判決は漸次ゼロに近づいていくであろう。
 
永山事件の東京高裁判決はこのような流れを象徴的にあらわした判決であったが、死刑廃止に傾く裁判官が多い以上、驚くにはあたらない。
 判事補を三年間したあと弁護士に転じ、ある死刑事件を担当した弁護士はっきりとこう語っている。
 
「私は死刑制度には反対の考えをもっていた。しかし、実際には死刑求刑事件に関与することはなかったので、ほんとうの意味でこの問題をつきつめて考えたとは言えない。ただ死刑執行に検察官のみが立会うことには疑問をもっていた。少なくとも、裁判官が死刑を言渡すにあたってはその執行に自ら立会い、その結果を容認できるというはあいでなければならない。右のような立場で決断すべきだと考えていた」
 永山事件にしても、四人を殺害した点と本人の生育環境、情状のどちらに重きを置くかで、一審死刑、二審無期に分かれ、結局最高裁で差戻しになった。同じようなケースは永山事件ほど問題にならなかったにしても、過去にいくつかある。
 
 敗戦直後にヤミ物資を世話するとだまして、大阪で男を次々に自宅に誘い込んで殺害し埋めていた事件で、犯人の夫婦は十二年間逃亡生活をした末に逮捕された。この夫婦は犯行を悔い、逃亡先で「アリの街の聖人」として周囲の人から慕われていたが、この点の情状で大阪地裁は三六年一月に無期懲役の恩情判決を下した。大阪高裁では四人殺害、逃亡の点が重視され死刑に逆転し、最高裁で確定した。
 
 永山事件とは一、二審の量刑が逆だが、量刑判断の力点をどこに置くかによって、裁判官の刑罰観、自由心証主義によって必然的に起こってくるケースである。
    世論調査では死刑存置の支持率が多いという国民感情。
    死刑のきびしい適用基準によって、裁判官による死刑選択が恣意的に行なわれることはない。又、死刑は年々減少している。
    裁判は慎重に行なわれており、死刑確定事件で誤判が確認されたケースは
ない。
などである。
 このうち、免田、財田川、松山事件など三件の再審無罪判決によって、③の不当性はますます明確になった。
 
 無期か死刑か、の分かれ目は、いかに量刑の一般基準を厳密に設けても、最終的な判断は裁判官の人間性、刑罰観によって決まる。自由心証と恣意性の区別の基準などもありはしない。それに、どこまで量刑の公平性を確保するか、憲法による「法の下の平等」の観点からも重要な点だが、両者の兼ね合いがさらに難しい。
 
 誤判と死刑の関係を考えれば、こうした矛盾を解消する唯一の道は死刑廃止しかないのではなかろうか。死刑か無期か、という量刑の差は紙一重にみえて、生命を奪うかどうかの天地の差なのである。あえていえば、被告にとっては誤判以上の影響を持っている。
 しかも誤判の危険性を常に内蔵させながら、あえて死刑の選択を裁判官にゆだねるのは酷ではないかとも、思えてくる。
 
「私は今までに死刑判決を二度言渡している。裁判官によっては在職中一度も死刑判決をしない人も相当ある。実際、死刑の判決をするときほど不愉快なものはない。法を司るから言渡すのである。ときには、なぜこのような因果な職についたかとさえ思うことがある。
一件の死刑の宣告は傍聴人から判事さんの頭が真赤になったといわれた程興奮したと憶えている。ある若い被告に死刑に処すと宣言した瞬間、若者の顔色は蒼白となり、首をうなだれ実に見るも憐れであった。被告人は無期になると思っていたらしい。
 
 この若者に対する死刑執行の記事を見た私は二、三日食欲がまるでなかった。ところが、A(八海事件の被告)はこの若者と比べて、天地の相違を感ずる。Aは二人の老人を殺して何等悔ゆるところがなく、死刑判決を受けた時も嘲笑的な苦笑をしていた。(中略)
われわれ裁判官は重大事件と軽罪事件を問わず、一つひとつの事件が被告人にとっては人生途上の重大事である点に鑑み、その一つでもおろそかであってはならないことを常に心がけ、全身全霊を打ち込んで審理に当たっているのである」(藤崎晙著『入海事件-裁判官の弁明』一粒社・昭和31年)
 これは、死刑-無罪-死刑-無罪と七度も裁判を繰り返した八海事件の一審の裁判長の言葉である。八海事件の主犯とされたAの態度を少年と比較して痛罵しているが、Aが無実であったことは、真犯人が出所後にも明らかにした。 自由心証主義という裁判官の思いこみや固定観念がどんなに恐しいか。
全身全霊を打ち込んでも誤ることもあり、誤判と死刑の恐しさを象徴したケースだが、現在、こうした危険性が十年、二十年前以上に排除されていると果たしていえるのだろうか。
 
法務大臣と死刑  法務大臣の権限=執行サイン

さて、裁判官が「生きる値打ちなし」の死刑判決を下しても、それで終わりというわけではない。帝銀事件の平沢貞通氏が死刑確定後三十年を経過したのをトップに、二十年以上も死刑確定囚ながら獄中で生と死の間で苦闘している者は少なくない。
 その人たちにとっての本当の終わりを告げる処刑を決めるのは、法務大臣である。刑事訴訟法四七五条一項には「死刑の執行は法務大臣の命令による」とあり、法務大臣がその死刑を命じた時は五日以内に執行しなければならない、とも同四七六条に書いてある。
法務大臣のサインこそ、「生きている死者」と呼ばれる死刑確定囚の命綱を確実に切断する最後の合図なのである。
 
死刑確定囚の執行に至る過程はどのようなものなのか。そして、法務大臣はこのサインをどのような気持で行うのか。
それについては勢藤修三著『死刑の考現学』(三省堂・昭和五八年刊)の「死刑執行手続と法務大臣」に詳細に紹介されている。
勢藤氏は法務省担当記者を十三年間続けてきたベテラン記者だっただけに一般にはうかがい知れぬその内幕を伝えている。
 それによると、死刑執行までの手続はこうだ。高検、地検から死刑執行に関する上申書が法務大臣あてに提出される。法務省刑事局は事件の記録をとりよせて、局付検事が記録を精査して死刑執行起案書をまとめる。
死刑起案書は犯罪事実、証拠関係、情状、結論の順序で書かれ、最後は「以上、いずれの点からしても本犯は刑の執行の停止、再審、非常上告の事由なく、情状に照らして恩赦に浴させる余地はないと思料される。よって、死刑執行命令の発付方につき高裁を仰ぐ」となる。
 
この起案書が刑事局、矯正局、保護局などに順次、回覧され、それぞれの上司の決裁を受けて、最終的に死刑執行命令書と名前をかえて大臣の机の上に置かれる。あとはサインを待つだけとなる。以上、何重ものチェックを受けて、慎重にも慎重を重ねるらしい。
 
 法務省の局付検事として、実際に二件の起案書を書いた元検事は語る。
 
「死刑となると大変です。こんなヤツは悪いからすぐ死刑執行しろという意見を書く人は少ない。たいがいは、これは気の毒だからなんとか死一等を減ずることができないかという結論でむすぶんです。
やはり行政でもずっと上の方の人になると、インテリジェンスが高いんです。早く死刑にしろ、なんて刑事局付の検事がいうと、むしろ蔑視されるわけです」
 戦後初めての法務大臣は岩田寅造であり、その後、現在の嶋崎均まで計四十四人が次々とそのイスに座ってきた。
その間の死刑執行は五百七十六人にのぼる。単純計算すると、一人の法務大臣が十三二回、サインをした勘定になる。しかし、これはあくまでも単純計算で、実際は各大臣の在任期間の長短や思想、信条によって、一回もサインをしなかったり、逆に信条とは別個に法務大臣の職務としてしなかった者などさまざまである。
 
 前に紹介した元検事はそのあたりを、皮肉をこめてこう述べている。
「法務大臣は死刑執行命令を自分の任期中にはやりたがらない。任期交代ですから、どうしても十件ぐらいはやってもらわないと、と(下の者から)言われると、気の弱い人はそうかなと思ってサインをする。
逆に老巧な人は『イヤ、今日はちょっと腹が痛いから』と逃げてしまう。坊ちゃんみたいな大臣がくると『大臣、これは六カ月以内にやることになっていますから』『おお、そうか』なんて、サインをしてしまう」
 相手が凶悪犯罪を犯した死刑確定囚とはいえ、自分のサインがその生死を分けるとなると、法務大臣でも尻ごみする人も多い。
昭和四二年一一月から四三年一一月まで法相だった赤間文三は、「そんなことをしたら、今度はオレにお迎えがくるよ」 とサインをするのを逃げ回ったという。
このため、任期中の昭和四三年は執行ゼロを記録した。
 
サインをめぐる悲喜劇
 
 法と人情の板バサミになるのは裁判官、刑務官、法務大臣もかわりはない。特に、政治家という人気商売故に、法務大臣のサインをめぐる悲喜劇も少なくない。
 五九年七月、仙台高裁で再審無罪が決まった松山事件の斎藤幸夫さんの母親ヒデさん(七十六歳)は、法務大臣の一言でピンチを切り抜けたという。死刑が確定して間もなく、死刑執行か、という情報が舞い込み、ヒデさんは直ちに上京し、当時の植木庚子郎法相に直談判した。
 ヒデさんの話では、法務省の会議室に案内され、待っていると、植木法務大臣が十人ほどの部下をつれて現われた。
 
「私、宮城県から参りました。松山事件の無実の死刑囚の親です。うちの子供は何もやっておりません。無実です。是非、死刑の執行だけはしないで下さい。もし、死刑になればあなたの犠牲になるんですよ。死刑になった後に事件が明るみに出たら金で賠償すればいいと考えていられるとしても、私は金は欲しくありません。金は働けばいくらでもできます。生きた子供で返して下さい」
 そういうヒデさんの気迫に押されたのか、植木法相は、「お母さん、私の在任中は執行しません」と告げ、「本当ですか」とヒデさんが念を押すと、「僕を信じて下さい」といったという。(以上、『自由と正義』昭和五八年九月号)
 
 松山事件で斎藤氏の死刑が最高裁で確定したのは昭和三五年二月で、ヒデさんが植木法相に会ったのは翌三六年のことである。約束通り植木法相がサインをしなかったのと、その後の大臣も慎重であったために、斎藤氏は二十九年ぶりに無罪にこぎつけた。大変ラッキーな例である。
この植木法相も全部の死刑確定囚にこうした温情を示したのではない。何十人かにジュズを片手に念仏をあげながらサインしたという。その時の気持を植木氏はふり返る。
 
「ぼくがどのくらいサインしたかは覚えていないが、思い出すのもイヤなものです。周わりのものはその辺を知っているから就任当時は遠慮してもってこない。二、三カ月たつとたまってくるから仕方なく持ってくるが本当にイヤだった」(『東京新聞』昭和五二年二月一九日付)
こうもつけ加えた。
「死刑にしても被害者が生き返るわけじゃないしね。私の場合は蚊も殺すなとしつけられて育ったから、死刑にしないで無人島で一生終えさせたらと思ったりね」(同)と死刑廃止の感情をにじませた。
 
 この正反対の実例もある。金大中事件やロッキード事件で硬骨漢ぶりをみせた田中伊三次法相(四二年と四八年の二回就任)で、勢藤氏はあきれ果ててこう報告している。
 
 昭和42年10月16日、田中法相は法務省担当の記者を大臣室に招き、二十三人もの大量の死刑執行命令書にサインしたことを発表したのである。記者が仰天したはかりではない。五日以内に次々に大量処刑をしなければならない拘置所の職員、他の死刑囚も恐慌状態に陥ったことはいうまでもない。
 
 赤間や死刑廃止論者としてよく知られる古井喜美から一方は田中まで、一八〇度違うさまざまな主義、主張を持った法務大臣によって、死刑確定囚の命は伸びたり、縮んだりする。裁判官が死刑判決を下す統一的な基準などはなく、その恣意性が問題になっているが、その点では法務大臣の方がもっと気まぐれともいえるだろう。
厳密な法的手続によるものでなく、法務大臣の腹一つで決まる執行のサインは、死刑確定囚にとっては裁判以上の恐怖である。死刑確定囚が政変に敏感なのはこのためである。
 
 精神科医として数多くの死刑囚と接した作家の加賀乙彦は、その体験をもとに『宣告』『死刑囚の記録』などの小説、ドキュメントを発表しているが、この法務大臣のサインの矛盾をきびしく批判している。死刑囚を最も身近に知っているだけに、その発言は考えさせられる。
 
「死刑判決には疑問があるといっても、裁判は一応公開されている。犯罪の詳細は示されているし、求刑や判決にはその理由が述べられている。(中略)ところが、これだけ気をつかって下された死刑の判決も一度確定してしまうと、こんどは法務大臣という、裁判にもまして死刑囚とも直接のかかわりを持たない一人の人間の一存にゆだねられてしまう。こんな不都合が許されていいのだろうか。
 
死刑の執行命令は死刑確定者の現状をよくわきまえたうえでなされてはいない。自分の過去を反省し、被害者の冥福を祈り、ひたすら悔悟の生活を送っている者が処刑される。その反対に犯行について何の反省も自覚も持たず、房内でも反則と反抗に明け暮れている者がいつまでも生かされていた。
 ある法務大臣は一人も執行を命ぜず、別の法務大臣は大量に処刑した。人間の命を一人の人間の気まぐれにまかせているのが、死刑制度の最後の疑点である」(『犯罪ノート』潮出版社・昭和五六年九月刊)
 

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