速報(257)<原発事故民間事故調報告書『世界を震撼させた3月の7日間」①<菅元首相のリーダーシップは?!
速報(257)『日本のメルトダウン』
<福島原発事故独立検証委員会調査・検証報告書のポイント>
★『世界を震撼させた3月の7日間」①
●<菅元首相、首相官邸のリーダーシップは発揮されたのか、
マスコミが伝えるようにダメだったのか①>
マスコミが伝えるようにダメだったのか①>
第3章 官邸における原子力災害への対応
第2部 原発事故への対応
① 震発生から緊急災害対策本部の設置まで
3月11日の地震発生直後、福山哲郎内閣官房副長官は官邸の執務室にいた。福山官房副長官は危機管理センターへの緊急参集チームの招集を秘書官を通じて危機管理監に指示し、15時00分ごろ、官邸の地下にある危機管理センターに到着した。このとき同時に、国会から官邸へ戻ってきた枝野幸男内閣官房長官も危機管理センターに入った。その約5分後、菅首相と松本龍防災担当相も危機管理センターへ到着した。
危機管理センターには10面はどの大きなモニターがあり、防衛省からの映像や各テレビの緊急報道の様子を流していた。センター内の円卓には各省庁の局長クラスの担当者(20人程度)が着席し、各自専用の緊急電話とマイクが置かれていた。緊急電話を通じて、国土交通省から鉄道運行状況や道路状況、気象庁から余震毎に震度とマグニチュード、警察庁から110番の件数、消防庁から119番や火災発生の件数が随時報告され、各担当者によりマイクでアナウンスされた。
担当者の後にはそれぞれの部下が随時報告のために待機しており、危機管理センターには常に100人以上の人間が詰めている状態であった。この横には各役所のブースのようなエリアがあり、隣のより広い部屋にはさらにその下の部隊が待機していた。このように危機管理センターは発足直後から、かつての証券取引所の場立ちを思わせる大変な喧騒状態であった。
この状況下では、書類を回して意思決定する状態ではなく、菅首相、枝野長官、福山副長官らは、危機管理センターに入ってから最初の15分ほどは、それぞれの報告を聞き、その場で判断を下していた。そして地震発生から約30分後の15時14分に、災害対策基本法に基づき緊急災害対策本部が設置された。
菅首相、枝野長官、福山副長官らが顔を揃えた直後に緊急災害対策本部が設置されなかったのは、通信遮断、停電の状況等、被災全体を把握してから閣僚を招集し対策本部を設置したほうがよいという判断によるものであった。危機管理センターに首相、正副官房長官と各省庁が揃っており意思決定がでる状況で、地震発生直後にまだ何も情報を持たない各大臣を危機管理セン一に招集するよりも、それぞれの省庁で情報を把握した大臣を招集する形で、15時37分に最初の対策本部会議が開催された。この会合では、地震・津波の応急対策の基本方針が決定された。
②第10条通報以降
15時35分の津波第二波により福島第一原発の全交流電源が失われたため、原子力災害対策特別措置法(原災法)第10条に基づく特定事象発生の通報が、15時42分、東京電力より経産相、原子力安全・保安院、関係自治体に届けられた。福山副長官はこの時「全体が何となく緊張感がより上がった」と振り返った。16時過ぎから第2回の緊急災害対策本部会議が開かれ、地震・津波対策に加え、原発対策についても討議された。枝野長官はこのころ、被災地の自治体との連絡や帰宅難民対策といった初期の震災対応に追われていたため、原発対策については福山副長官が対応することになった。
海江田経産相は、地震発生時には国会の決算委員会に出席しており、その後経産省に戻っていた。経産相は、原発は制御棒が入って停止したという第一報と同時に、各地での停電と京葉コンビナートの火災報告を受けた。原発は緊急停止したとの報告であったため、コンビナート火災等の対応を行う会議に入り、その後大臣室に戻ってきたときに初めて、15時42分の第10条通報を伝えられた。全交流電源喪失と聞き、海江田経産相は事態の深刻さを知った。
危機管理センターの喧騒状態が続いていたため、原発事故対応は、11日夕方からは危機管理センター横の中2階にある小さな会議室で行われた。この会議室のメンバーは、同日夕方の時点では、菅首相、枝野長官、海江田経産相、福山副長官、寺田首相補佐官、細野首相補佐官の6人の政治家と、寺坂信昭原子力安全・保安院長であり、同日21時または22時ごろからは、寺坂保安院長に代わり平岡英治保安院次長、これに枝野長官、班目春樹原子力安全委貝長と東京電力の武黒一郎フェローが加わった。
この中2階の会議室での11日夜における最初の対応は、電源喪失に対応した電源車の手配であった。官邸が電源車を手配したにもかかわらず、11日夜から12日にかけて電源車につなぐコードがないなどの報告があり、手配した電源車は役に立たなかった。なお、枝野長官は後に「率直に申し上げて、東京電力に対する不信はそれぐらいから始まっている」と述べている。
班目委員長は、21時ごろ官邸に到着した際には、「(原発事故担当である)保安院が何かやってくれているんだろう」と期待していた。しかし、保安院はその時点ではプラント状況や事故対処状況の把握に手間取っている状況であった。班目委員長は、官邸到着後、「相談する相手もいず、ハンドブックもない状態」で、首相らからの矢継ぎ早の質問に答えることとなったと述べている。
電源車による早期の電源回復が期待できず、原子炉に注水するための高圧ポンプも使用できなかったため、班目委員長は原子炉格納容器の圧力を下げるため、外界に直接排気するベントを進言した。特に異論を唱える者はおらず、ベントの必要性は会議室メンバー内で共有された。
ベントが必要という方針が固まったため、21時23分に、菅首相は第一原発から半径3km圏内に対して避難指示を出した。22時時点では、保安院も、27時ごろには2号機で燃料溶融が起こるという予測を出し、ベントの必要性を指摘していた。
23時ごろには、武黒フェローがベントについて「早く組織としての決定をしてくれ」と東京電力本店に電話をかけて催促している。しかし、ベントは実行されないまま格納容器の圧力は上昇を続け、12日0時55分、2号機の格納容器圧力異常上昇が原災法第15条に基づき通報された。ようやく、1時30分頃、武黒フェローが菅首相に、小森明生東京電力常務が海江田経産相と保安院にベントを申し入れ、いずれも了承された。海江田経産相は小森常務に対し、3時に合同記者会見を開いた後にベントを行うよう要請した。
3時06分、ベント実施に関する経産相、東京電力及び保安院の共同記者会見が実施され、すぐにベントを実施する予定であると発表された。3時12分から官房長官も別途記者会見を行い、ベント実行を官邸が認めていることを発表した。しかし、ベントはすぐには実施されなかった。海江田経産相は武黒フェローに「なぜベントが始まらないのか」と質したが、「わかりません」との回答しかなかった。
このため、海江田経産相は東京電力に対し不信感を募らせ、原子炉等規制法(炉規法)に基づいたベント命令の必要があると考えはじめた。なお、この時点において発電所では2号機の原子炉隔離時冷却系(RCIC)が作動しているとの情報を把握していたが、この情報が記者会見に臨む経産相、保安院、東京電力の3者の間で十分に共有されていなかったため、いずれの原子炉についてベントを実施するかについて説明に混乱をきたした。
東京電力からのベント申し入れを了解した際、官邸中枢は圧力抑制室を通した放射性物質の放出量が少ないウェットベントが念頭にあり、班目委員長の「チェルノブイリでも30kmくらいまでしか立入禁止がありませんから、(放射性物質は)そんなに広く飛ぶわけではない」という説明に基づき、3km圏以遠の住民避難の必要性を考えていなかった。
1時42分、保安院と原子力安全委員会が会議を開き、3kmの避難区域を見直さない方針を了解した。
他方、記者会見の後、東京電力本店対策本部は3時45分頃、ベント時の周辺被曝線量評価を作成し、福島原発現地と共有した。この評価においては、1号機におけるドライベントも視野に入っており、ドライベントの3時間後には南4・29kmの地点で28mSvという高線量の被曝があると予想していた。
この予想は4時01分に福島原発から保安院に報告されたが、官邸トップには届かなかった。班目委員長は「ドライベントは失念していた。ドライベントをやる場合には避難は3kmでは足りない。10kmは避難しなくてはいけない」と後に述べている。
3時頃のベントについての記者会見の後、3時59分の長野での地震対応に追われていた福山副長官が会議室に戻ると、まだベントが開始されていないことを知り驚いた。5時頃には、菅首相もベントができていないことを知り、その原因を東京電力の武黒一郎フェローに確認したところ、「停電しているので電動のベントができない」との答えであった8。ベントが開始されず1号機の圧力が高まったため、爆発に備えて5時44分、避難指示の範囲が第一原発から10km圏内に拡大された。
その後、6時14分に、首相は自衛隊ヘリコプターにて官邸屋上から第一原発へ向かった。
枝野長官は「絶対に後から政治的な批判をされる」と原発訪問に反対したが、「政治的に後から非難されるかどうかと、この局面でちゃんと原発を何とかコントロールできるのとどっちが大事なんだ」と菅首相は問い返した。枝野長官はそれに対して、「わかっているならどうぞ」と答えた。枝野長官は誰かが現地に行く必要があるとは考えていた。
枝野長官は「絶対に後から政治的な批判をされる」と原発訪問に反対したが、「政治的に後から非難されるかどうかと、この局面でちゃんと原発を何とかコントロールできるのとどっちが大事なんだ」と菅首相は問い返した。枝野長官はそれに対して、「わかっているならどうぞ」と答えた。枝野長官は誰かが現地に行く必要があるとは考えていた。
菅首相の視察出発後もまだベントが実行されていなかったため、海江田経産相は「俺の責任でやる」と、ついに6時50分、炉規法第64条第3項に基づくベントの実施命令を口頭で出した。この時、何号機のベントなのか指定はなかったが、政府の内部資料によれば保安院としては、1号機と2号機の両方について指示を行ったものと認識していた。
他方、現地の吉田昌郎所長は「まず急ぐのは1号機」と判断していた。なおこの頃、吉田所長が菅首相の突然の訪問予定に難色を示し、東京電力本店との間のテレビ電話回線を通じて「私が総理の対応をしてどうなるんですか」などと激しいやりとりをしていた様子が目撃されている。
原発に向かうヘリコプターで班目委員長は菅首相にいろいろな懸念を伝えたかったが、菅首相は「俺の質問にだけ答えろ」とそれを許さなかった。その後ヘリコプターの中で一間一答の形で会話が交わされるが、そのなかの一っが「水素爆発は起こるのか」だった。
班目委員長は「格納容器のなかでは窒素で全部置換されていて酸素がないから爆発はしない」と答えた。格納容器から原子炉建屋へ水素が漏れる事態を想定していなかったためであるが、12日に1号機で水素爆発が起こると班目委員長は一気に菅首相の信頼を失うことになった。
7時11分に菅首相は第一原発に到着した。原発到着後、待機中のバスに乗り込むと隣に座った武藤栄東京電力副社長に「何故ベントをやらないのか」と初めから詰問調で迫った。免震重要棟に入った後、武藤副社長は電力がないため電動弁が開けられない点を説明すると、「そんな言い訳を聞くために来たんじゃない」と怒鳴った。
免震重要棟における打ち合わせにおいて、吉田所長から「決死隊をつくってでもやります」と説明を受け、菅首相はやっと納得した。8時03分、所長は9時を目標にベント操作を行うよう指示し、8時04分に首相は第一原発を出発した。官邸に到着後、菅首相は「吉田という所長はできる。あそこを軸にしてやるしかない」という感想を枝野長官に伝えている。
8時27分、大熊町の一部で避難が完了していないとの情報を東京電力が得て、東京電力と福島県は10km圏内の住民避難が完了してからベントをすることを確認した。現地で住民避難の完了を待っていたという事実を官邸は一切知らされておらず、数カ月後にその事実を知った枝野長官は「えっ」と驚いている1。9時02分に大熊町の避難完了が確認され、9時04分、ベント操作のため作業員が現場へ出発した。この後、9時15分頃の原子炉格納容器ベント弁の手動開、そして10時17分の中央制御室からの開操作の後、ベントが成功したと判断された。
①爆発の当初認識
3月12日15時36分、福島第一原発1号機が爆発した時、菅首相は野党と党首会談を行っている最中であった。会談を終え首相が官邸5階にある首相執務室に戻ると、1号機から白煙が上がっているとの情報がもたらされた。
福山副長官が班目委員長に対して「(これは)何なんですか」と説明を求めたところ、班目氏は当初「揮発性のものなどがあちこちにあるので、それが燃えているんじゃないか」という見立てを示した。首相執務室とそれに隣接した応接室には、ホワイトボードやテレビが持ち込まれ15、12日午後以降、福島原発対応に関する政府の最高意思決定の舞台となっていた。
関係者が引き続き状況を注視する中、第一報から1時間ほど経過した頃に寺田補佐官が首相執務室に駆け込みテレビのチャンネルを変えると1、大爆発により建屋が吹き飛び大量の白煙が上がっている映像が繰り返し流れていた。班目委員長の説明したイメージとのギャップに菅首相は「あれは白煙が上がっているのか。
爆発しているじゃないですか。爆発しないって言ったじゃないですか」と班目委員長の説明していたイメージとのギャップに驚きを示したところ、班目委員長は「あー」と頭を前のめりに抱えるばかりであった。
爆発しているじゃないですか。爆発しないって言ったじゃないですか」と班目委員長の説明していたイメージとのギャップに驚きを示したところ、班目委員長は「あー」と頭を前のめりに抱えるばかりであった。
菅首相から保安院と東京電力に直ちに事実確認の報告が指示されたが、東京電力からは「今免震重要棟からスタッフが徒歩で様子を見に行っています」という報告だけが返ってきた。福山副長官が再度班目委員長に「あれはスリーマイルとかチェルノブイリの爆発じゃないんですか」と尋ねたが、班目委員長から明確な回答はなかった。
班目委員長は爆発映像をみて「水素爆発だ」とすぐに思いついたが、首相の原発視察同行時「水素爆発はない」と答えていたこともあり、茫然自失してそのことを「誰にも言えなかった」と証言する。
関係者が1号機の状況確認に奔走する中、菅首相も、知り合いの外部専門家らと電話でやりとりして、爆発の状況を理解しようと努めた。しかし、17時45分に予定されていた官房長官会見のために事前に打ち合わせを行う段階になっても、爆発の事実関係が把握できていなかった。福山副長官は原子炉の格納容器や圧力容器の無事が分からない限り会見は延期すべきとの慎重論を唱えたが、枝野長官は爆発発生から2時間が経過しているのに記者会見を延期すれば国民はより動揺すると考え、会見を予定通り実施することとした。
建屋爆発の後、東京電力の福島原発サイト正門入口の線量が上がっていないとの唯一の情報を踏まえ、枝野長官は会見冒頭で「何らかの爆発的事象」が発生したことを認めつつも、国民に冷静な対応を呼びかけた。
会見から2時間後の19時40分頃に首相執務室に細野補佐官が入室し、爆発後の周辺線量低下を確認したので、これは水素爆発だという結果を報告した。寺坂保安院長は後日、「原発1号機のベントが成功し、その後の爆発を想定していなかった。原因がしばら判らず官邸への連絡が遅れた」と反省の弁を述べている。
なお、この間、1号機建屋の爆発を受けて、枝野長官は同日17時26分に福島第一・第二原発の両方について、半径20km圏内住民避難のシミュレーションをするよう、保安院に指示した22。そして17時39分、菅首相は半径10km圏内の住民への避難指示を出し、さらに、18時25分に福島第一原発の避難指示対象を半径10kmから20km圏内に拡大した。
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