日本リーダーパワー史(573)「日中戦争リテラシー 「近衛外交」の失敗は なぜ起きたかー河辺虎四郎少将回想応答録(昭和15年
2015/06/10
日本リーダーパワー史(573)
「日中戦争リテラシー」
支那事変(日中戦争)での「近衛外交」の失敗は
なぜ起きたのかー[中国との講和交渉のむつかしさを]
河辺虎四郎参謀本部第2課長(事変勃発当時)が証言①
◎河辺虎四郎少将回想応答録(昭和15年 参謀本部作製)
本書は竹田宮恒徳王殿下が大本営研究班員として武力戦的見地に基く中央部の統帥に関する御研究資料としで事変勃発当時参謀本部第二課々長たりも河辺虎四郎少将に就き昭和十五年七月直接聴取せられたる事項の速記録なり。
講和問題
河辺 それから後、前にも申上げました「トラウトマン」の講和問題
であります「トラウトマン」があそこで口出しをしたと云ふことは誰か殿下に申上げた人がありますか。
殿下 いや、ありません。経緯に就ても色々電報を見ましたが、よぐ判りませんでしたが。
河辺 私自身「トラウトマン」が仲介に出るようになった出発点が支那側にあるのか日本側にあるのか、若し日本側とすれば誰が之を仕向けたのであるか今も一切存じません。疑問で居ります。ただこれは全くお含みにお開き願い度いと思いますことは、次長が私に起案を命ぜられたもので当時、ベルリンの大島〔浩〕武官(当時は未だ駐独大使にあらず)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B5%A9
大に.電報を打ったことがありますて当時部長は石原莞爾少将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE
でありましたが次長からの電報として.「適当ナ時機ニー日本二取ツテ有利ナ時機二支那ト講和二入り度イが「ドイツ」側二此ノ斡旋ヲヤツテ呉レル気がアルカナイカト云フコトヲ知リタイノダ」と云う意味のものであります。
当時、大島武官からはそれに対して返電は来て居らぬように思います。また、どういう工作をせられたかも存じません。其の後、私が伯林(ベルリン)へ行きましてから何の話も聞きませんでした。
そういふことは極く内緒で・・…石原部長、多田駿次長・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E9%A7%BF
…私と三人しか知って居らぬことと思ひます……。或は中島〔鉄蔵少将・当時総
務部長)http://d.hatena.ne.jp/maroon_lance/20090609/1244555110
も少々位は知って居られるかも知れませんが‥‥。そこで之との関係の有無は不明ですが。その後ズツト遅れて私は外電の傍受で始めて「トラウトマン」の問題を知りました。それは南京に居ったl「アメリ力」.の領事か公使かが「今、日支の間に「トラウトマン」駐支独大使をて講和条件の問題がある日本側は斯う云u条件を出して居る」と言って教ヶ条の案件の電報を打ったのを参謀本部で傍受しました。
それに依って私は始めて「トラウトマン」が工作して居ると云ふことを知った次第であります。所が其の時に之が省都の間に大きな「センセーション」となりまして一番初め疑を蒙ったのが私であります。
石原少将のことを当時軟弱だから -ひどい言葉でありますが-「敗戦主義者」と言って居た者すらありましたが……其の時は転出して居られなかったので……そこで私は「敗戦主義者」の残党のやうに見られたのでしょうか-。先づ私の内部工作とでも疑はれ「之は兎に角第二課長が臭い」ということになったらしく、陸軍省の諸君と会議することとなり、最初に次のやうに詰問を受けました。
「此の問題は第二課長は知って居られるでせうー知って居られることを吾々には言って呉れぬのか」と言うのであります。
併し私は実際に知らないということを述べますと、そこで参謀本部でなければ之は外務省だろうと云ふことになり広田外相の工作だらうと云ふ話でありました。
所で私は今になって推断されるのは或は広田外相の工作であったかと思って居りますが、之は決して悪るいことであるとは思いません。寧ろ、こうした我が態勢の良い時機に和平工作を進めるのは外務当局の為政家として試むべき立派な一つの案だと恩ひます。
どういう風な方法でやられたかと云うことは存じて居りません。それから此の問題が起りました時に省部の間は矢張り気持において二つの考へ方が対立したと思います。即ち「敵が弱気になった強い条件を出してへこますか聴従しなければ、更に強力な武力行使をやるべし」..と云ふう考へ方と「この時機を失したらいよいよ長期戦に陥るから多少の不満を忍んでも講和成立に導くべし」と云う考へ方であります。′
多田次長はあとの方の考へ方で、非常に強硬な意志を以て、どうしても講和に導かうという気持で動いて居られました。それに全然反対ではありませんがそれ程非常に進んだ気持は陸軍省には動いて居りませんでした。
併し参謀本部、なかんずく私等は兎に角持久戦になるということはすこぶる不利だと云うことを考へて居りましたから条件なんか強過ぎることを言はぬで大抵の所で手を打つべきであり、これがまた東亜の大局から見て善いことだと思い努力致しました。
▼しかるに他の者には日本は戦勝者ではないか、だから取るものは取らなくちやならん、それに依って言うことを聴かなければ更に降伏するまでやれば良いではないかという意見もありました。
それで色々ゴ夕ゴタがありまして政府との連絡会議でもますます問題になりましたか、政府側ははっきりした定論…・・、・即ち政府として一致した方針が確立して居らなかったと恩います。.そこで参議の意見も聞き、又民間の反響をも収集して居たやうであります?、参議中末次〔信正〕大将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%AC%A1%E4%BF%A1%E6%AD%A3
あたりは大に支那側を敲きつけろという強硬な意見であったやうであり、荒木{貞夫)大将http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E5%A4%AB
などもそうであつたやうであります。
「一番弱いのは参謀本部だ、軍人は一.番強いのが当然だのに一番弱いと云うことは怪しからん」という批難が立って居たようでありますが、多田次長は噂や批難に屈することなく真に大局的見地においてこの際,講和をすべきであると真剣に奮闘さられました。
之等の結果から「応当方の嫡和談判開始士の基礎条件を示し、之に拠って談判を開始する意図があるかないかを聴かう、そして其の回答要求に期限を附けようという話になり、其の案を随分、練り上げて先方に通ずる方法を執ったのでありますが、その条件を作為するのにも相当に揉めました。そして談判が開始されようになるものとして談判と休戦との関係をどうするかという問題もあり、私はその前から日清日露両戦争終末の史実をも調査して居りましたから、其の例を参考としてやる案を立てゝ居りました。
殿下 その時、期限附の要求をしたのではありませんか。
河辺 はいそうでず……。一月十五日ですがその日には返事が来なかったのです。..上海へもこれはなかったのです、然し参謀本部は期限までの時間の関係もあり、又、支那側にとつても重大な諸案件が含まれて居るのであるから今少しく時を待ってやるか、或は回答の促進を図る方法を取るならば何等かの回答を取り付け得るであらう。
今直ぐに支那側に和平を欲す右の意図ななと断定すべきでないとして此の考で次長は軍令部次長とも打合せ両統帥部の意見として連絡会議で主張せられましたが、政府側は最早支那側に誠意を認め得ずとし…・・次長から伺った話でありますが…・・最後の時に米内海相が次長に対し「結局、・参謀本部は支那側に誠意なしと断定せられぬのは外交当局たる外務大臣の判断と異るものであって外務大臣の判断を基礎として国策を進めて行くべき政府と反対の意見であると云うことになる。」
即ち参謀本部は外務大臣に対し不信任ということと同時に政府を不信任ということになる。そうすると統帥部と政府との意見が違うといふことで戦争指導を統帥部と手を取ってやって行けない、従って政府は辞職しなければならないということになります」と言われたのであります。
次長は此の時「明治天皇は朕に辞職なしと仰せになったと聞いて居るが、この重大時期に政府の辞職々々とあなた等がお考になる気持が判らぬ」と声涙共に下った場面があったのであります。
当時第一部長は居ませんでした……。私は部長がどうして居らなかったのかはっきり知りませんが……。
殿下 部長が更迭して北支から未だ橋本閣下は来て居らなかったのではないですか。
河辺…ああさうかも知れません、次長は右のやうに連絡会議が物わかれとなって来たのを申されましたから私は政府の態度は威(おど)かしだろうと言いました。「講和問題で強いことを主張した政府が弱いことを主張した陸軍の意見で罷めるということがあっては非常に具合が悪いということを見せつつ威して居るのではないか」ということを申上げました。所が次長は「いや、さうではないらしい - 近衛は本当に嫌がって居るらしい」と言つて居られました。
殿下 それには議会の関係もあったのでせう。
河辺 はい、さうです。「何かきっかけを作って罷めたいらしいぞ、何か外務大臣(広田弘毅)は罷めるように決したと私に言って居った」と次長は言はれました。
.そういう悲劇までありましたが結局総務部長(中島鉄蔵)第二部長(本間雅晴)も同席協議の結果、この際統帥部と政府との対立が外に現はれることはすこぶる不適当であるから政府に一任するという態度をとることに決められ、
そして其の旨はっきり上奏しようということになりました。即ち参謀本部は信ずるところあるけれどもここで意見を固執すれば政府の立場上其の辞職問題をも惹起し内外に及ぼす影響甚だ宜しくないと思うから、本件政府に一任するということに致しますと云う意味を有の極上奏することとなり上奏又も出来たのであります。
つづく
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