前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本風狂人伝(28) 大預言者(?)で巨人の大本教の開祖・出口王仁三郎のジョーク

   

日本風狂人伝(28)
大預言者(?)で巨人の大本教の開祖・出口王仁三郎
前坂 俊之(ジャーナリスト)
(でぐち・おにさぶろう/1871-1948)宗教家。大本教開祖。明治三十二年に京都丹波郡の出口ナオを知り、その娘すみと結婚。皇道大本を設立。布教活動を進め、大正七年に「大正日日新聞」を買収、信者を増やす。警察の第一、二次宗教弾圧によって壊滅的打撃を受けた。

大本教の開祖・出口王仁三郎は昭和戦前に二回もの激しい弾圧にあい、教団本部の建物はすべてダイナマイトで破壊されつくす、徹底的な迫害を受けた。それほど、出口王仁三郎の存在は巨大であり、権力からみるとジャマな存在だったのである。
 王仁三郎に会った知識人は「常識では律せない」(松島栄一)「大怪物」(今東光)「千年に一人」(吉川英治)「巨人」(大宅壮一)、山師、逆賊、狂人、大天才、大予言者、非凡人、真人と、あらゆるレッテルをはったが、その通り確かにケタ外れの巨人であった。
口八丁手八丁の自由人で、文芸百般なんでもこなした。文章はもちろん、狂  和歌にこっていた時、全国の和歌や短歌の会に百以上入り、一夜に数百首を詠んでそれぞれの歌誌に毎日何十首も投稿したので、大反響をまき起こした。
評論家の大宅壮一がこの頃、初めて王仁三郎にインタビューした。これまでどのくい和歌を詠んだかと聞くと、王仁三郎は「すっかり計算すれば五、六十万首じゃろう」と答えたので、大宅もビックリ仰天。
一日十首詠んでも、百五十年はかかる計算ではないか。 「一日どれくらい詠むのですか」と改めて聞き返すと、「平均二、三百首にはなる」 「すると、朝から晩まで歌ばかり詠んでいるんですか」 
「いや、わしのは、普通に話している言葉がそのまま歌じゃ。たいてい、寝がけに二百や三百は詠んだことにしておる。昨夜も詠みながら眠ってしまった。たしか、三百首あまり詠ん だつもりだったが、今朝起きて速記を見ると、二百くらいしかない。あとは、夢の中で詠んだらしいな」。さしもの大宅も、毒気に当てられ完全に脱帽した。
  王仁三郎の人物を知る上で、参考になる事件がある。当時、共産党幹部で後に転向した佐野学と並ぶ労働運動家・三田村四郎は、官憲に追われ国外へ脱出したが、その前に三田村は乳飲み子を王仁三郎に預けた。託された以上、大切に育て、三田村の子供ということは秘密にしなければならない。王仁三郎はこの女児を自分の子として育てた。親しい信徒に赤ん坊を預け「ないしょにしといてや。わしが失敗したんや」と養育を頼んだ。あらぬウワサがすぐ流れた。
「聖師さんに、隠し子があるそうや」「女に手をつけ、子を生ましよった」というもので、すぐ、すみ夫人の耳に入った。問いただしたところ、王仁三郎はあっさり認めたのでサア大変。夫人は猛烈に怒り、夫婦げんかとなったが、王仁三郎は「かんにんしてくれ」の一点ぼり。それ以外は何も言わなかった。結局、王仁三郎は真実を言わず、戦後三田村が地下から現れると、この成長した娘と父娘の対面を果たした。それまで当の娘も、王仁三郎の子と信じ込んでいた、という。
 孫の出口和明の証言によると-。「信者の前で〝エンヤコラショなどと、派手なかけ声入りで、放屁したり、偉い人の前でも平気で裸で出た。真夏など素っ裸で仰臥し、天井からヒモをぶらさげたセンタクバサミに、脱脂綿をあてて、睾丸をはさんで持ち上げ、ウチワであおがせたりしていたとは、トホホ・・・」
 
 この巨人の下に、信者十万人をようしていた大本教は、一九三五(昭和十)年に官憲によ るきびしい弾圧を受けた。 王仁三郎は検挙された時、自分の股間をさし、「大本教はいじればいじるほど、大きくなる」とタンカを切った、という。
  刑務所に入った王仁三郎は、何も遊び道具がないので退屈し、白昼堂々とオナニーを始めたり、一物を出して遊んでいた。驚いた看守が「何してはりますねん」と問いつめると「へ エー、つい手もとにあるもんでな」と平気の平左で答えた。この話を、同じ獄中で女の看守から伝え聞いたすみ夫人は「ウチの先生はむかしから手にあわん人でな、それくらいは朝飯前じゃろ」とケロっとしていた。何ともにたもの夫婦である。
  こうした性的なエピソードは山ほどある。エロ坊主、エロ教祖とたたかれても、本人はカエルの面に小便で、ケロリとしていた。裸でワイ談を、信者の前で平気でするので、これに、尾ヒレがついてデマがすぐ飛んだ。正月に信者が「おめでとうございます」とあいさつすると「オ●●●じゃし」と言ったり、お宮まいりにひっかけて「たまにはヴァギナの故郷へおまいりせい」と冗談を言ったり。
  ある時、本殿の居間から外を眺めていると、山陰線でSがあえぎながら「ボボシュシユ」「ボボシュシュ」と走っているのが見えた。王仁三郎は何を思ったか、突然、大声で「ボボシタ、ボボシタ(セックスの方言)と叫びはじめ、周囲の人々は、ビックリ仰天。
 ちょうど、そこに布教宣伝に行っていた幹部が帰ってきて、あいさつに現れた。王仁三郎はいきなり「ボボシタな!」とこの男をドナリつけた。周囲の者が、二重にあっけにとられていると、この男は平伏して、青くなってガタガタふるえている。この男は布教先で、未亡人と出来てしまったことを、王仁三郎は霊感で見抜いて、ドナったのであった。
 巨人・頭山満が王仁三郎に会った時のこと。両巨人の息づまる対決と思いきや、静かな口調で、頭山は「あなたは、よくいろんな夢をみるそうですな」と聞いた。これに対する王仁三郎の返事がふるっている。
「へエ。わたしはよう夢を見ますのや。こないだもええ夢を見てな。夢の中で、何やら大きな穴にはまってもた。からだごと、首んところまではまってしもたんや。ところが、もがいとるうちに、だんだんええ気持ちになってくる。おかしいなあ、と思ってふとみると、あんた、それが大きなオマンコや。ここから先っちょだけ入ってもええのに、(指でポーズをとり)ズポッと足の先から、からだごと首まで、つかってもうたんやから、ほら、なんともいえんほどええでえ」 頭山は「ウーン」と感心してしまった。
王仁三郎のワイ談は裁判でも平気の平左。法廷や裁判長など、へとも思わぬ王仁三郎は、控訴審で裁判長から「おまえは教団の中で、生き神になっていたのだろう」と問われ、「私は生き神さまにはコリゴリです。夢にもそんなことを考えたことはありまん」と答えて、こんな話を披雇した。
風呂に入っているとアソコがムクムク
ある田舎の信徒の家で、庭にすえられた五衛門風呂に入った。いい気持ちでいると、バアさんや娘、近所の人たちが、ゾロゾロ三十人近くも集まり、拍手を打って、高天原の祝詞を読みはじめた。
王仁三郎は変なことをする人たちだと、早く行ってくれないか、と思っていると、突然、ムクムクと彼の一物が頭をもたげ、手ぬぐいで害えても、一向におさまらない。曇どんどん熱くなり、出ると、突っ立っている一物が暴露されてしまう。熱くて熱くて、祝詞が早く終わらないかと、がるにがれず、釜ゆでになる寸前に、九死に一生を得た。
「裁判長、なかなか生き神さまなんぞに、なれませんぞ」と答えたが、裁判長はふき出しておかしいやら、あきれるやらで驚いた。
王仁三郎は第一審で無期懲役の判決が下ると、後ろを向いて「アッカンベー」をしたり、と大騒ぎして、その度に休廷になった。ある時など耳がきこえない、という。「監房で耳かきを使わしてくれないから、耳がふさがった」と訴えて困らせた。全く恐れいった態度である。ただし、そうした珍談、奇談のほかに、王仁三郎の冗談やシャレの中には、鋭い時代への批判精神が隠されていた。王仁三郎が京都中京刑務所に入っていた1940(昭和十五)年三月、信徒の女性が面会にきた。その時の問答である。
 Q 聖師さま、大根が一本十一銭もします-。ネギ一本も一銭もしますのよ。
A そうか、そりゃたいへんだあ。 
Q それだけじゃないのですよ。米もないのですよ。
 A そりゃあたりまえや。コメナイ(米内)内閣だから。
 Q 炭もないのですよ。
 A おすみ(夫人の意)をここに入れておくからだ。おすみを早く出せばよいのだ。
 王仁三郎は面会にきた信徒をシャレや冗談に託して激励し、時代を批判、戦争の行方を暗示したのである。
 「東条がエエ気(英機)になって神風は頼むなといっているから、神風は吹かん」。小磯内閣、米内海軍大臣の頃は「小磯がしゅうて(こ忙しい)、ようない(米内)なあ」 「小磯(島)つたいで、米内(米国内)に入るのや」、鈴木貫太郎内閣になると「これが日本のバドリ オ(ムッソリーニ亡きあとのイタリアの首相兼外相で連合国に降伏した)や。なごうは鈴木 貫太郎(続かんだろう)」と見事なダジャレで、戦争の行方をズバリと占なっていた。
  王仁三郎は一九四二(昭和十七)年八月に約六年八ヵ月ぶりに保釈され、シャバに出た。 それ以後も、平気で放言や批判をして、周囲の者をビクビクさせた。信者に対して「こんどの戦争は、なぐり込みだから天佑はない」 「神さんは人殺しはお嫌いや、大本は戦争には協力せんわい」出征兵士に対して「鉄砲は空に向けて撃っとけよ」といい、特別のお守りを与えたが、それには何と「我敵大勝利」と書きそえ、側近は余りのことに青くなった。この件を知った憲兵隊や警察は内偵を始めた、という。
 
 
 

 - 人物研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
百歳学入門(232)ー曻地 三郎(教育家、107歳)「100歳生涯現役を楽しむ20ヵ条」★『<生涯現役>と厳(いか)めしい顔をするのではなく、 生涯現役を楽しめばよい』★『風が吹けば風になびき、苦しいことがあれば苦しさに耐え、「あの時こうすればよかった」などという後悔は何一つない』

「100歳生涯現役」を楽しむ 曻地 三郎(しょうち さぶろう) https:// …

『Z世代のための最強の日本リーダーシップ研究講座(43)』★『ロシアと違い日本は宗教が自由の国』★『ルーズベルト大統領は「なぜもっと早く来なかったのか!私は君を首を長くして待っていた」と金子特使を大歓迎』★『ル大統領「日本のために働く」と約束』

ルーズベルト大統領は金子特使を大歓迎 米国到着、米国民はアンダー・ドッグを応援 …

no image
日本リーダーパワー史(976)ー『150年前の日本と中国―副島種臣外務卿のインテリジェンス』★『世界に先駆けて『奴隷解放』に取り組んで勝利したマリア・ルス号事件(明治5年7月)を指導した』

  150年前の日本と中国―副島種臣外務卿のインテリジェンス 前回、一 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(142)再録★『異文化コミュニケーションの難しさ― 「中華思想」×『恨の文化』⇔『ガマン文化』の対立、ギャップ➃『『感情的』か、論理的か』★『中国の漢民族中心の「中華思想」華夷秩序体制)」 ×韓国の『恨の文化』(被害妄想、自虐 と怨念の民族的な情緒)⇔日本の『恥の文化』『ガマン文化』 『和の文化』のネジレとギャップが大きすぎる』

2014/06/17  /月刊誌『公評』7月号の記事再録 中国の漢民族 …

『リーダーシップの日本近現代史』(194)記事再録/全米の少女からラブレターが殺到したイケメン・ファースト・サムライの立石斧次郎』 ★ 『トミ-、日本使節の陽気な男』★『大切なのは英語力よりも、ジェスチャー、ネアカ、快活さ、社交的、フレンドリー、オープンマインド 』

立石斧次郎(16)・全米を熱狂させたファースト・イケメン・サムライの立石斧次郎 …

『 Z世代にためのス-ローライフの研究』★『元祖ス-ローライフの達人・仙人画家の熊谷守一(97歳)のゆっくり、ゆっくり、ゆっくり』★『小学校の時、先生はいつも「偉くなれ、偉くなれ」というので、「みんなが、偉くなったら、偉い人ばかりで困るのではないか」と内心思った』

仙人、超俗の画家として生前も人気の高かった熊谷は没後,評価はますますうなぎのぼり …

『オンライン講座・日本戦争外交史②』★『日露戦争・ポーツマス講和会議②―戦争で勝って外交で敗れた日本』★『今も外交力不足の日本が続いている」★『樺太はこうしてロシアにとられた。ロシアの恫喝・強権・フェイク外交に騙されるな』

第ゼロ次世界大戦としての「日露戦争」 前坂俊之(ジャ-ナリスト) 会議はほぼ一カ …

no image
明治150年「戦略思想不在の歴史⒁」―『明治維新を点火した草莽の革命家・吉田松陰⑵』松下村塾で行われた教育実践は「暗記ではなく議論と行動」

松下村塾で行われた教育実践は「暗記ではなく議論と行動」 2015年、松下村塾が「 …

『ある国際ビジネスマンのイスラエル旅行記➂』★『イスラエルの嘆きの壁レポート』★『わがメモアールーイスラエルとの出会い、Wailing Wall , Western Wall 』(嘆きの壁)レポート(1)』

     2016/02/16『F国際ビ …

no image
日本リーダーパワー史(223)『日本の政治家で最も少ないグローバルな戦略をもった経済政治家の先駆者―山本条太郎』 

日本リーダーパワー史(223)   <三井物産の中興の祖・山本条太郎> …