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日本リーダーパワー史(70)辛亥革命百年⑩孫文大統領誕生の「二六新報」報道、パーセプション・ギャップの発端

      2018/10/18

日本リーダーパワー史(70)
 
辛亥革命百年⑩孫文大統領誕生の「二六新報」報道
 
<日中コミュニケーションギャップの発端>
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 
 辛亥革命(1911年)が勃発し、ついに革命に成功した際、孫文を助けた秋山定輔「二六新報」社長はいち早く中村舜二記者を現地に派遣して取材に当たらせた。辛亥革命の戦闘取材、孫文の大統領就任までの経過や就任式なども詳細に報道している。
孫文が大統領に就任した際、上海で犬養毅らかつて支援してくれた多くの日本人を招いてある日、一席設けた。この時の模様を中村記者は細かに報道し散々またせた揚句の孫文の傲然とした態度について「主客転倒の就任披露」と痛烈に批判する一文を掲げた。(以下に原文を紹介する)
 
この一文は日中関係、日中の越え難いコミュニケーションギャップを考える場合のいい参考ケースとなる。これは日本人と中国人との思考法、表現形式、行動様式、価値観、コミュニケーション、時間観念、あいさつ、礼儀など国民性、民族性、カルチャギャップ、パーセプション(認識)ギャップの深淵そのものなのである。
 
中村記者はこれまで散々世話をしてきた孫文がいざ大統領になった段階で、遠路はるばるやってきた恩義ある日本人たちをパーティーの開始時間を3時間も待たしたことにカンカンに怒り、しかも傲然と主座にすわってあたりを睥睨する孫文とそのまえでペコペコしている日本人に腹をたて、さっさと席を立ってしまった。
 
この孫文と支援した日本人たちのパーセプションギャップが、その後の日中対立の要因になった。「孫文を世話した、支援したことを強調しがちなせっかちな日本人」一方、「漢民族は、漢民族でメンツを重んじ、井戸を掘った人間はいつもで忘れない礼節のいきの長い民族」であることも確かだ。
大隈重信内閣での対支21ヵ条の要求が中国側にどんな理不尽な要求だったか、
その後の泥沼化した日中戦争の行方をみれば両国の間、日本人、中国人のカルチャギャップは容易に越え難いものがある。
 
孫文をかくまった頭山満の大アジア主義の原点は「たとえ支那が日本の厚意に対して、忘恩の行為があったとしても、我れは我れだけ、の心を尽くしたものとして、愚痴は言はぬものじゃ。愚痴という了見では初めから他の世話をする資格がない」と言い切っているのはさすがである。「成田離婚」ではないが、孫文と日本人志士たちのハネムーンで最初からトラブル、感情対立が起きているのだ。 

孫文と日本人のアジア主義者たちの失敗と成功、コミュニケーションギャップ、パーションションギャップの総括なくしては今後の日中関係の新しい地平は開けてこない。
 
以下は[二六新報]中村舜二記者の「辛亥革命と孫文」レポートである。
 
 
 「支那辛亥革命で特派記者となる-秋山社長の特命で始めての支那外遊」
<中村舜二記者>(「秋山定輔伝」(3巻)桜田倶楽部 昭和54年刊に収録)
 
-四ヵ月にわたる大陸南北の駈け歩るき一代の風雲児孫文(号逸仙)を盟主とする革命軍が、一度び揚子江畔、武漢鎮の形勝に挙ぐるや、電光石火の如くに四百余州を風靡し、建国三百年に近い大清帝国があたかも大木が覆るるが如くにもろくも崩壊した第一次革命(辛亥革命)に当面して、予て日支提携を基調として東亜の大計に思いを焦して、その多年の日本への亡命生活の孫文を身を以て守り続けた「二六新報」秋山定輔社長としては、風雲に乗じ決起した孫文の挙兵は、真空世一代の感激であったに相違なく、人一倍激励を受けた私が、特にその社長の特命を受けて、二六新報特派記者として、一竿の筆を携えて初めての外遊に、大陸を南北に駈け廻わる新聞記者冥利に恵まれたのも、私の一代に取っても尽きぬ感謝の一時であった。
 
共和国中華民国の誕生
 
 中国革命の父孫文の三民主義(民族主義、民権主義、民主々義)を綱領とするいわゆる辛亥革命は、清朝の鉄道国有問題を契機として、疾風枯葉を捲くが如くに全国を席捲、一九二年(明治四十四年)革命軍は、その年十月十日に武漢三鎮(漠口、漢陽、武昌)の要衝で武装蜂起し、電轟電撃、たちまちにしてこれを攻略して革命運動の大勢を制した。
 
 超えて十二月二日、南京陥落と共に、革命政府は立に移り、孫文を臨時大統領に選挙し、翌一九一二年一月一日を以て中華民国の元旦とし、正式に孫文の大統領就任が行われ、一月三十一日各省代表者より成る参議院の総会で共和国中華民国と南京臨時政府は成立を告げた。
 
清朝崩壊と袁世凱
 
 他方、崩壊に瀕した清朝政府は、時局収拾のために、時の北洋軍閥の総師袁世凱を起用し南方征伐の兵権一切を託したが、こうかつな袁世凱は朝命にさからって孫文と妥協し、部下の将領を動員して共和賛成に寝返りを打った結果、当時わずかに五歳の宣統帝は 後の満州皇帝) 二月十二日退位して、建国二七七年の大清帝国は、敢えなき最後を遂げ、袁世凱は二月十五日を以て孫文に次でマンマと第二次大統額に就任した。
 
 孫文大統領をアスターハウスに訪問
 
 風雲児・孫文は全世界の注目を浴びつつ、たちまち中華民国大総統として落ちつきき、上海のアスターハウスホテルに君臨することとなった、訪問の時機が来たので、石井外相(菊次郎、秋山社長と同期生)の紹介名刺を添えて会見を申し込むと、幕僚の一人で日本通の戴天仇が出て来て巧みな日本語で。
 
『折角の御来訪特に石井外相の御紹介ですが、唯今孫文さんは新聞社のどなた様にも御面会されておりません。ロンドンタイムスの東洋特派のモリソンさんにさえも御断わり致しておる有様ですからどうぞ今暫く御猶予下さい』と、鄭寧親切の謝絶である、そこで私は集中射撃の一方法として、同業の朝日、毎日、時事の特派記者と一緒に馬車に鞭って乗り込んだが矢張り駄目だったので、立に私は伝家の宝刀を抜くことに決心した。
 
 その伝家の宝刀というのは、出発に際し、孫と肝胆相照の秋山定輔社長に孫への紹介名刺をねだったところ、『俺の名刺は通れない、石井君(外相)の名刺で沢山だ』と、剣もホロロに一蹴されたので再三懇請した結果、ヤット2枚(孫と伊集院公使)の紹介名刺を貰ったのはよいが、大声叱呼『この俺の名刺は断じて使ってはならぬ』
と、含蓄あるキッイ御達しである、然るにその石井外相の名刺が不発に終ったので、遂に秋山社長の名刺を使わねばならなくなったのが、これがいわゆる伝家の宝刀であった。
 
 超えて両三日、午前九時私はダシヌケに重ねてホテルに訪問した、代わった幕僚氏(陳其美氏であったと思わる)は秋山社長と孫との関係を知っていたと見え、私を迎えて甚だ慇懃、早速孫文に通すると『今日は他に約束がありますのでチョットだけお目に掛ります』とあって六階の大総統室に導かれた、相対した時局の人孫文、かつて日本で見た時とはウッて変った大人の風格、どっかと深く腰をおろしたその椅子は、民国大総統の印綬に輝いている、
 
彼は静かに口を開き。『秋山先生は益々御元気で誠に結構に存じます、私の今日あるは全く秋山先生のお蔭です、亡命以来累年の御鞭達と御支援には感謝に堪えません、御通信でもなさる場合は、私も幸にこんな元気でやっていますことを御伝え下さい、今日はこれから出掛けますので、何れ近日一席を設けまして御待ち致しております』と、いった神妙の挨拶には、私もツクヅク伝家の宝刀の切れ味と、人間は畢責交わりだなと痛感、これを久うした一面、前日同行した同僚記者諸君への申し開きに苦慮した。
 
主客転倒の就任披露
 
 超えて旬日、大統領選挙の行われて間もなく(十二月三十日)孫文は黄興との連名で、当時上海在留の主たる日本人、犬養木堂を始め数十名を招き、就任披露を兼ねた親善歓談の一会を開き、約の如く私も招かれてその席末に列したが、開会予定より一時間も遅れ、サンザン客を待たせた上に、ヤット現われた彼れ孫文は、傲然として主座を占め、対面して群臣に拝謁を賜うといった不遜の態度にも拘らず、日本人たちはペコペコ名刺を出している卑屈の態度が癪に障り、取り巻き連に『余りつけ上るなといって置け』とその無礼の態度を叱り飛ばしてそこそこに引き上げ、即夜、次の一文を書いて本社に通信したものだった、五十年後の今日これを読んで今昔の感甚だ切なるものがある。
 
 
孫文、黄興、彼等何者ぞ(上海にて  呑年生)
(明治四十五年一月八日付『二六新報第一面記事』
 
軽侮されし日本人
 
 南京において大統領選挙の行われたる翌日、即ち今十二月三十日夜の事なりき。新たに大統領の印綬を帯ぶるに至りたる革命党の巨頭、孫逸仙は自己と黄興との両人の名を以て当地在留の日本人の重立ちたるもの並びに新聞通信記者、志士浪人等数十名を招待してパレスホテル・ヴィクトリアルームにおいて一席の清宴を張れり。
 
 革命運動の前途が果して如何の運命を粛らし来るや否や、暫く別とし、当夜の宴はこれを主人側の立場よりいえば洋々として春の海の如き人生の大希望を前途に繋げる最も痛快にして且つ最も光輝ある会合たるやいうまでもなし、然るに請ぜられて其の末席を潰せる記者の眼には当夜の宴は最も不愉快にして且つ不自然を極め、凡そ宴会あってより以来将た国民外交あってより以来、恐らく嘗って見ざる無作法なる会合なりしことを牢記せずんば非ず。
 
 記者いま立に当夜の次第を概報せんとするに当り筆に憤々の気を交えざるの止むを得ざると同時に明治辛亥掉尾の報道を斯くの如き不快の文字を以てせざるを得ざるを深憾とす。
関係者の追想当夜の招待は正五時というにありしを以て来賓は四時頃より至り定刻には殆んど全く堂に満てり、然るに肝腎の主人公は定刻を過ぐる四十分なるも恰も忘れたるが如くに其の姿を現わさず僅かに其の秘書役らしき一二人が座間に周旋しっつあるを見たるのみ。
 
 六時に垂んとする時黄興、先づ至り極めて冷淡なる挨拶をなしたる後ち通訳をしていわしめて日く『甚だ遅くなりまして相済みません、唯今、孫さんも参りますから今、一時御待ち下さい』
 
客を迎えてこれを待つの礼に出でざるのみならず更に孫の釆るまで待てというに至っては、何という失礼ぞや、於是平群客唖然として言無く或は腮を撫し或は髭を放し頻りに四辺の殺風景と闘いつつ孫の来るを待つ、六点鐘を報ずるも来らず更に半時を過ぐるも尚来たらず七時に垂んとして孫は漸く其の姿を席上に現わし得意満面秘書をしていわしめて日く。
 
『重大なる要件がありまして甚だ遅くなりました、向に失礼しました』
 彼が身辺重大なる要件の多少これあるは記者固よりこれを諒とす。然れども予め時を刻して客を招きながら唯重大なる要件にかこうして酒然たるに至っては決して客に対する礼とはいうべからざる也。
 
 これ尚お暫く恕すとして更に記者の堪え難きは、彼等は恰も其の主人側たる地位を他に譲りたるものの如く孫文と黄興とは相前後して倣然、群客の前を歩み、席を正面の第一座に占め、所謂南面して群客を睨一睨し、卿等にして願う処あらば此際、謁を許すべしといわぬ許りの態度は不遜の極、ああ何等の無礼ぞ、何等の自尊ぞ、いやしくも客を請じて之を迎うるに礼をつくさず却て逆に客をして己れ等を迎えしめんとす、主客転倒も立に至って極まれりというべし。
 
 それ己に主客転倒し根本に於て礼にもとれり、更に之れを主客の立場より見んか、客は全然他邦の賓客なり、須らく大に之を待つに礼を以ってせざるべからず、主客国家の地位よりいえば客は優越せる新興国の紳士に非ずや、境過の上よりいえば客は革命に最も多くの同情を有する人士に非ずや、彼等にして若し礼儀の何たるを解せば宜しく正に謙遜自重、辞を低うして客を待ち肱を把り襟を披て一夕の清談を以て彼等修交の誠を致すべきに非ずや、之を為さずして客を見る事、恰も自家の使用人の如く豪然自ら高うして独り偉しと為す、平常、人に処して寛大なる記者も立に至って憤然席を蹴って去らざるを得ざるなり。
 
 若し夫れ席に列れる邦人の多数が深く之を怪まず鞠窮如として彼等の座に進み刺を捧げて謁見仰付けられるに至っては、宋裏の仁も亦極まれりと謂うべし、
 
思慮末だ熟せざる年壮気鋭の輩ならば尚ほ或は恕すべきの点なきに非ず、禿白の諸紳平然をなして怪まざるに至ってはいささか驚かざるを得ず、犬養木堂も其の一人なり、寺尾(亨)博士も亦其一人なり、記者は孫文黄興の徒が一朝風雲に会して今日の運命を打開し胸中の得意掩はんとして掩う能はず、寛に斯の自窓の態度を学ぶに到れるか、
 
或は又、左右に侍せる張三李四の徒が補導其の宜しきを制せず彼等をして不知不識この傲慢たる態度を取らしむるに至りたるかを知らずといえども余りといえば彼等の態度の礼譲の道に欠けたるを陋とし一言して不謹慎と不真面目とを戒めおくもの也。
 
 
 
 
 

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