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『Z世代への遺言』★「日本史最大の国難を4ヵ月で解決した救国のトップリーダー・鈴木貫太郎首相(78歳)を支援して、終戦を実現させた昭和名僧、山本玄峰(95歳)とは一体何者か?(上)』★『力をもって立つものは、力によって亡ぶ。金で立つものは、金に窮して滅び、徳あるものは永遠に生きる』

   

   2021/10/01「オンライン・日本史決定的瞬間講座④」 記事再録・再編集

●田中清玄をを使って終戦工作

1944年(昭和19)10月から翌年春にかけて、山本玄峰老師は田中清玄をお伴につれて三島から汽車の三等車に乗って沼津によく出かけていた。

駅には木炭車が迎えにきていたが「わしは乞食坊主なので歩いていくわ」とすたすた歩いて、同市桃郷町の信者の屋敷により「お前はここで待っておれ」と指示して姿を消した。三,四時間して、老師はひょつこり帰ってくるが、無言のまま。一体だれと会っているのかわからなかった。

ある日、老師はポツンと「貞明皇后様(昭和天皇の生母)が御国のことをいたく心配してござるわ。戦争で国民にこれ以上の苦しみを与えたくないと心を痛めてござるわ」ともらした。その時、田中は沼津御用邸に避難、静養中の貞明皇后様に参上していたのだなと、ハッと気がづいた。

 

翌20年1月15日は「臘八接心」(ろうはちせっしん、釈迦が大悟した日で、お釈迦様が悟りを開いたことにちなんで、一週間、横にもならずに座禅を組んだまま公案(こうあん、禪の問答、問題)を練る。いわば卒業試験)であり、田中にとっては四回目の公安の日だった。

老師はいきなり大声で「今日の公案は日本をどうするかじゃ」と問いかけた。一瞬、意表を突かれた田中は絶句し、頭は真っ白くなった。数分してやっと「戦争を止めるほかありません」「だめだっ、練り直して来いっ!」と一喝された。また翌日、「日本をどないするんじゃーい」と老師は突っ込んできた。3日目も「どないして戦争を止めさせるんじゃあ、言え、言えーっ」「・・・」

 ●田中は絶体絶命の窮地に・・、名案は浮かばぬ。

老師は「いますぐ日本は負けにゃあいかん。日本はな大関(今でいう横綱)じゃから、大関は勝っもきれい。負けるもきれい。日本は、やれ聖戦完遂や、やれ本土決戦だと我慢や我執にとらわれておったら、国は潰滅し、国民は流浪の民になるぞ。今こそ戦争に負けて、国を救うんじゃ、命をかけた人間が五人おりやあ、できる。どうだ、お前できるか!」(1)

 

接心が明けて、老師は再び、田中を呼んで「どないして日本を救うんじゃ」と再問した。田中は「老師のお言葉を陛下のお耳にいれたいため、鈴木貫太郎さんや米内光政さんにお伝えしましょう。いきなり2人のところへ行くと、目立って非常に危いので、まず老師の一番親交の深い伊沢多喜男さん(枢密顧問官、警視総監、台湾総督)にお伝えします」。老師もよかろうというので田中が、伊沢宅を訪ねると、「わかった、米内に伝える。しかし、お前は動くな!老師は憲兵隊に狙われておる」と忠告された。

数日後、迫水久常((内閣参事官、その後、鈴木首相内閣書記官長))から、「親父(鈴木貫太郎)が老師に会いたいと言っている」と伝えてきた。3月25日、老師(79歳)と鈴木貫太郎(77歳)(枢密院議長)の会談は赤坂の旧乃木大将邸の前の内田眼科病院の邸宅で実現した。田中は用心棒として付き添った。

鈴木「老師、日本は今、国が滅びるような危機です。『武人政権をとって国興った例なし』と古人が言う通りです。政治は政治家にまかせにゃいかん。モチはモチ屋にです」

老師「力で立つ者は力で滅びる。金で立つ者は金で滅びる。徳をもって立つ者は永遠なりです。あなたは徳がおありだから、徳をもってお立ちなさい」

鈴木「実は今、私は陛下から大任を命ぜられようとしています。しかし、私は政治は嫌いです。『武人、政治に関与すべからず』を金科玉条に生きてきた者としては、その信念に反することにもなり、どないしようかと悩んでおります」

老師「あなたは日常の政治家ではないし、総理になる人でもない。あなたは純粋すぎる。しかし、今はそういう人こそが必要だ。国が滅びるというのを救うのは、あなたのような、生命もいらん、金もいらん、名誉も他位も何もいらん、という人でなければできません。

あなたは2・26事件であの世に行っている方だ。だから、生死は乗り越えていらっしゃる。お引き受けなさい。戦争をやめさせるために、もう一回殺されなさい」(2)それから10日余りした4月5日、新聞で「鈴木貫太郎に大命降下」との記事が大きく出た。

●2・26事件で瀕死の重傷をおった鈴木貫太郎

老師がふれたのは1936(昭和11)に起きた二・二六事件では鈴木貫太郎侍従長官邸は反乱軍兵士たちの襲撃を受けた。兵士たちは「理由は何だ?」と聞く鈴木の胸や心臓付近、頭めがけて兵士たちは四発の銃弾を浴びせた。兵士の1人が「とどめを……」と叫び銃口を頚部に押しあてたが、「それだけはやめて下さい」と側にいた夫人が必死で懇願して制止した。

指揮していた安藤輝三大尉は「もはや生き返るまい」と思ったのか中止を命令し、血だらけで横たわる仮屍状態の鈴木に、全員敬礼して引き上げていった。部屋は血の海になり、かけつけた医師がすべって転ぶほどで、鈴木の心臓、脈も一時的に止まってしまっていたが、奇跡的に一命は取り留めた。夫人の一言で九死に一生を得たわけだが、もしこの時、鈴木が亡くなっておれば、昭和史は決定的に違ったものになっていただろう。

それから9年後。一度死んだ鈴木が大日本帝国の存亡をかけた土壇場で登場する。昭和20年4月、戦時終戦内閣を組閣する大役が回ってきた。昭和天皇から「耳が聞こえなくてもよい。政治に経験がなくてもよいから」とさとされて、鈴木は77歳の老齢でこの大任を引き受けた。この時期、和平や終戦は一切タブーであり、鈴木は和平を深く胸中に秘めて、態度には微塵も出さず「国民よ行け、わが屍を越えて」と訴え、軍を収めることに全精力を集中した。終戦の聖断を天皇が下すのに鈴木の決断力と逆転突破力が大きかった。最後の御前会議での天皇の聖断を引き出したのは昭和天皇と鈴木首相と山本老師との見事な連係プレーであり、まさしく阿吽の呼吸だったのです。

8月12日に鈴木首相の使者が龍沢寺を訪れ、終戦の決意を伝えたのに対して、「いよいよ戦争終結することになって結構なことだ。しかしあなたの本当のご奉公はこれからであるから、まあ忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、一つ身体に気をつけて、今後の日本の再建のために尽くしていただきたい」」との書状を托した。

この「忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、修行をせよ」は、達磨大師の言葉から引用したものだが、8月15日の昭和天皇の玉音放送の中でも使用された。

●生まれてすぐ捨て子のなる。

山本玄峰は1866年(慶応2)3月、和歌山県東牟婁郡四村(現・田辺市本宮町)湯の峰温泉の旅館「芳野屋」で生まれた。生まれてすぐ捨て子となったが、近所の資産家の岡本善蔵夫妻に拾われ、養子となり岡本芳吉と名付けられた。

この地域は古代から熊野本宮があり、熊野参詣の修験道や権現信仰の聖地。奈良県十津川村に隣接しており、古来より大和国、伊勢国から熊野本宮に到る参拝路の終点。2004年にはユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録され、世界中から大勢の外国人観光客が訪れており、世界的な仏教の巡礼地となっている。

●一遍上人が「時宗」を開祖した霊験地で生まれて、捨て子に

また、湯の峰温泉は4世紀に発見された日本最古の湯。一遍上人が「時宗」を開祖した霊験地で、玄峰老師の歩みはこの一遍のルーツから生まれたのです。

少年時代の玄峰はこの山奥のけわしい山野を駈けめぐり勘の強い暴ん坊として成長した。14歳で山に入って薪(まき)つくり、木こり、筏渡(いかだわたし)として熊野本宮から新宮間の熊野川を往復しながら成長した。

19歳の時に、眼を患って京都府立病院(今の府立医大)で4年間治療したが治らず、失明の宣告を受けた。絶望した玄峰は死に場所をさがして放浪の旅に出た。

日光華厳の滝、良寛の生れたた新潟県出雲崎、日本海沿いの最大の難所・親不知、子不知でも死にきれず、四国徳島の難所大歩危、小歩危まで放浪を続けた。

  • 四国でお遍路さんとなり計7回巡礼、「啐啄之機」(そつたくのき)
  • ここでも死にきれず、ついに絶望どん底に追い込まれ、四国巡礼の道を開いた弘法大師に願をかけ「私が世の中の役に立つものなら、結縁をおさずけてください。役に立たなければ、早く命を引き取って下さい」とお遍路になった。
それ以来、一心不乱に「南無大師遍照金剛」(なむだいしへんじょうこんごう)を唱え、裸足で7回もお遍路を繰り返した。お遍路は1回まわるのに大体40日はかかる。これを約1年以上繰り返した。7回目の巡礼の三十三番目札所の高知県の雪蹊寺(せっけいじ)の門前で行き倒れになった。無銭宿泊所の「通夜堂」で、3,4日過ごし出家を決意、恐る恐る同寺の太玄和尚に申し出た。

「自分は紀州の山奥で育って、目も見えず、読み書きもできませんが、坊さんにしていただけますか」

太玄和尚は「いくら目が見えても、障子一枚向こうは見えない。いくら耳が聞こえても、一丁先の声は聞こえない。目や日が悪くても、心の眼が開けたならば、世界中を見渡し、天地の声を聞くことができる。お前もやればできる」とやさしく諭した。

この言葉が「啐啄之機」(そつたくのき)となった。道元の言葉で、啐(そつ)はクチバシでつつく、啄(たく)はついばむ、機は時機のこと、卵の中のヒナが目覚めて、カラを内側から破ろうと突つく時、親鳥も機を逃さず、外側からカラを同時に突いてこわして、ヒナが外へ飛び出してくる。長い苦難と放浪の末にたどり着いた仏門が開いた瞬間でした。

 

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