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『リーダーシップの日本近現代史』(262)/ 『明治陸軍の空前絶後の名将・川上操六参謀総長④『徳富蘇峰による人物評「細かいことに気のつく人は、大きいことには気がつかぬが、川上大将はよく大方針(日清戦争の勝利、日露戦争の準備)を定め、有能な人物を適材適所に用いて縦横無尽に活躍させて<坂の上の雲>を達成したリーダーパワーは傑出していた』

   

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明治陸軍の空前絶後の名将・川上操六論④・

 
前坂俊之(ジャーナリスト)
 
<以下は徳富蘇峰の川上操六論「我が交遊録」(中央公論社刊、昭和13年)の抜粋>
 
 明治軍人の秀傑・川上繰六
 
 もしプルタークの流儀によって、山県と伊藤とを合伝とせば、桂と川上もまた同様にすべき、あらゆる条件を具えている。予は川上にも親しみ、桂とも多年懇意の間柄であった。双方について恐らく最も深く知っている第一人とはいわぬが、その中の一人ではあろうと信ずる。
 
 過般、石黒況斎翁(いしぐろさようさい)を見舞うた時-子爵石黒忠悳(いしぐろただのり)、九十三歳--翁申さるるには、「自分は老病、とても長くこの世に望みはない。ついては貴兄に願い置きたき一事がある。それは川上大将のことである。大将が日清戦役に際し、如何に多くの貢献をせられたるか。また日露戦役の準備に如何に尽痺(じんすい)せられたるか。貴兄が最もよく知るところである。しるに世間では、大将一たび去って、これを聴かんとする者もなく、これを語らんとする者もない。ついてはなんとか貴兄の筆によって、川上大将の豊功偉勲だけは、伝えて貰いたきもの」としみじみ語られた。
 石黒子爵は日清戦役には、野戦衛生長官として、川上兵站総監とともに努力せられたる人であり、そのために爵位も授けられたことは、いうもない。川上大将の死んだのは、明治三十二年五月で、わずかに五十三歳であった。すなわち頼山陽と同年齢だ。
しかるに幾許もなく、大将の友人及び門下の人々によって、九段坂上に銅像が建てられた。而してその銅像を建つる際には、かつて大将の先輩であり、もしくは同輩であった人々によって、余り好感を有たれなかった。それは恐らくは時期が少しく早過ぎたためであり、もしくはそれらの人々の諒解をよく得られなかったためでもあろう。
 従ってその後、その傍らに出来た品川弥二郎子のそれに比較すれば、甚だ貧弱なものである。今月から考ゆれば、その時の銅像建立は見合わせた方が賢明ではなかったかと思う。しかしそれは今さら致方がない。ともかくも、川上大将は明治の軍人として、傑出したる一人であった。
 
 川上練六のタイプ
 
 薩摩人はその体格からいっても、二通りある。一は西郷型であり、他は大久保型である。即ち身体は長大にして、その筋骨の遥ましきことは、殆んど幕内の力士同様であって、誰が見ても強そうに見える者がある。南洲はそれであって、弟西郷、大山元帥、樺山伯、高島子、もしくは文官ではあるが、松方公などというは、そのタイプである。
 他はいずれかといえば、痩せ型であって、必ずしも幹躯長大ではないが、しかし精博の気が全身に添っている。いわばまず大久保型とでもいおうか。一しかし大久保公は、その幹躯は頗る堂々たるもので、大久保公が内務卿時代に腰掛けた椅子はその後幾多の内務大臣ができても、身体がそれに釣合わなかったほどだ。
しかしそのタイプの人は必ずしも堂々たるものではなく、時としては普通以下の小男もたまたま見受くることがある。例えば野津元帥の如きがそれである。中井桜洲山人(なかいおうしゆうさんじん)の如きもまたそれである。大浦兼武子、伊瀬知好成(いぜちよしなり)男の如きもそれである。川上大将もいずれかといえばそのタイプであった。
 川上大将は額はいささか禿上り眉は濃く、眼はばっちりとして、中肉中背、まことに好男子であった。′別にその容貌は豪傑らしくは見えぬが、如何にも俊敏の気が全身に満ち溢れていた。薩摩人というは、概して新派俳優高田実の如き、ぼんやりした、ヌーボー式であるが、川上大将はとてもヌーボー式などということは、薬にしたくもできなかった。それとてけちけちした小才子風でもなかったが、打てば響くというような、機敏であって、しかも応対が朗らかであり、何人に向つても、一見旧知の如くであった。
怒る時に鬼神が恐れたか否かは知らぬが、子供でも、女でも、誰でも親しまぬ者はないほどの愛嬌や会釈を持っていた。
 
 しかし川上大将を単に世渡り上手の小才子と観るのは、大なる誤りであって、彼は常に大なる一物を蔵し、それを成就することに千辛万苦した。早い話が第一次の仕事は清国との戦争であった。これは首尾よく仕終せた。第二の仕事はロシアとの戦いであった。これは準備中に逝いた。しかし彼が如何にそのために努力したるかは、所謂る知る人ぞ知るというべきであろう。彼には常に右の手を以って、その額から髪を撫で上げる癖があって、それは畏れながら明治天皇の御目に止まり、川上にはかくかくの癖があると、侍臣に仰せられた旨を承っている。それほど彼は陛下の御目に留っていた。
 
予と川上との交渉
 
明治十七、八年ごろから、陸軍に二つの星が輝き出した。それが川上、桂であった。もしくは桂、川上であった。予が『国民之友』に筆を執る頃には、この両人の星が最も輝き出した。新聞記者は如何なる場合でも、まさに舞台に上らんとする役者を物色するを1の仕事としている。それで予はこの両人については、常に注意を怠らなかった。
しかし当時の予の考えでは、とかく才幹ある軍人は野心が多いものであるから、この両人は他日わが憲政の邪魔をするものではあるまいかと、心窃か疑惧していた。それで自ら進んで近付くことはしなかった。しかる議会は開設せられ、その後桂は高島の大阪師団長より入って陸軍大臣となるを潮合にして、陸軍次官を罷めて、名古屋の師団に赴き、川上は累進して参謀次長となり、謂わば中央は川上1人の舞台となりつつあった。
 
 かくて明治二十七年、東学党の乱は、朝鮮半島に起り、愈々わが出兵を必須とする場合に於て、予は遂に川上大将-当時中将と会見することとなった。人を射らば馬を射よという。かかる場合に於て、好きとか、嫌いとかは問題でない。新聞記者としては、まずその種の根源を探らねばならぬ。
 当時予の立場は、伊藤内閣に反対であり、伊藤内閣に向ってその種を取ることは、殆んど不可能であったが、陸海軍は内閣の勢力範囲の外というほどではないまでも、左程その勢力が濃厚に及んでいない場所であるから、反対党としてのわれらが種を取るべき
場所は、ここよりほかになかった。
 そこで予は川上大将と面会したが、一たび面会するや、殆んど十年の知己もこれに若かざる心地がし、それから殆んど一日に一回、時としては一日に二回も彼を訪問することとした。
当時の川上も恐らくは予の書いたものを読んではいなかったろうが、予の評判-好評にせよ、悪評にせよーだけは若干聞いていたに相違はなく、彼もまた予を単に新聞記者の種取りとして待たず、同志として待ち、書くことと、書かねことの区別を定めて、あらゆる事件の進行と曲折とを語ってくれた。当時の彼の宅は、現在大橋新太郎君の邸の一部分にして、参謀本部次長の宅としては、余り立派とはいわれなかった。
木造の洋風建築にして、応接間が二つ連なっていた。しかもその応接間はただ板壁を隔てるばかりで、奥の応接間で話すことは入口の応接間におればほとんど手に取るように聞こえるほどであった。
その傍らに日本屋の住宅があったが、それも手狭きものであった。       

当時の内閣は、和戦いずれとも決せず、川上参謀次長は、内閣を引摺らて、是非とも戦争まで持って行こうというつもりであったらしく、そのためわれらにも少からざる良き種を供給した。従って川上大将によって、予は当時の参謀本部の有用なる人物に紹介せられた。土屋光春、福島安正、東条英教などというような人々も、その機会に知ったのであった。そのはか、他日は大将になった連中が、大尉や、中尉でいた者もすくなくなかったが、それらの人々とも、いつの間にか友人となった。

 思い遣り深さ川上       

 

川上大将は頗る思い遣りの深き男であった。故上遠野富之助君は、東京で新聞記者をしているうちに、しばしば川上大将を訪うて、種をとっていた。しかるに君は実業家となって名古屋に赴いた。明治二十七年九月十三日、天皇陛下が大本営を広島に移し給う時に、名古屋に御1泊遊ばされ、当時名古屋の官民は、いずれもこれを奉迎した。しかるに川上大将は、その奉迎の人々の中から、上遠野君を見出し、わざわざその近くに立寄って、挨拶をなし、久闊の情を述べた。

 

これがために上遠野君が如何にその面目を名古屋人士の間に施したか。あるいはこれによって君が名古屋に於ける位置は、一層高くなったということができなければ、若干確実になったことは、間違いあるまい。かかる例はいくらもある。彼は実にかゆいところに手が届く男であった。

また当時、国民新聞記者として、久保田米倦(べいせん)画伯が、朝鮮に赴き、平襲陥落の後、広島に来るや、川上大将の紹介によって、愈々大本営に赴き、御前揮竜をなすことができた。而してそれができた後には、大将はわざわざ米債画伯を招き、さらに祝宴を挙げた。かくの如く、苛も1芸1能ある者は、悉く彼より認識せられたが、特に彼に感心すべきは、1芸1能なき老までも、苛も彼に近付く者は決してこれを粗末にしなかった。

 

 能く小能く大の川上操六
およそ川上大将の家になんらかの用事を持って行く、車夫、別当の輩でも、空手で帰ったことがないというほど、大将ほ細かいところにもよく気をつけていた。しかし細かいことに気のつく人は、大きいことには気がつかぬが、そうではなく、大将はよく大体の方針を定め、それに向って人物を簡抜し、各々適材を適所に用いてその用をなきしむることに於ては、恐らくは他にその比類少かったであろう。       

とにかく何人も彼の下につくものは、喜んでその仕事をなし、自ら労して、その労を忘れしむるほどであった。彼はまた薩摩人としては珍しく、金銭に淡泊であった。され彼は日清戦争は、恐らくはなんらの貯蓄などというものはなかったであろう。日清戦役に大功を奏し、一躍金鵄勲章二級を賜い、子爵を授けられ、少からざる恩寵を悉くし、ようやく一人前の将官らしき生活ができたが、それでも死する時は余財豊もなかったということだ。

川上大将は初めからロシアに対するには、まず、支那と親しまねばならぬことを考え、戦争最中からから如何にし支那と親和すべきかに、それぞれ手段を講じていた。それで彼はその方面にはあらゆる力をいたし・是自ら対ロシアの関係からして、シベリア方面にも旅行し、また対アジアの関係からして、南支那より安南方面にまで赴いた。しかし彼は心臓病を患い、日清戦役後は、その健康が比較的恵まれなかった。
 
予は種々のことについて、相談したことがある。予が明治二十九年五月、世界一周の途に上るに先立ち、彼は当時参謀総長となっていたが、その参謀本部の主なる連中を率いて、予を一夕星ケ岡茶寮に招き、送別をした。而して翌年の夏、予が帰って松方内閣に就官せんとする場合も、予は彼と語って、「とても見込みはないが、男として今さら逃ぐるわけにも行かず、討死のつもりで、この渦中に飛込むこととなったが、後の始末については、なお御相談することもあろう」などといったことがある。
 その後彼は戦功の賜金によって、隣家を買いとって家ちしき家を作ったが、間もなく病に犯された。あるいは「その家が祟ったったのではなかろうか」とさえいう者があった。しかることのあるべき筈はなく、畢寛日清戦役に余り苦労した結果であろうと思う。
 
その当時から、橋本雅邦の絵を愛し、そのために雅邦の名作が若干彼の手に入り、雅邦ともまた親しく相語る間柄となったようだ。予は偶然上野の展覧会で彼と出会し、彼に誘われて、上野のある旗事で橋本雅邦、岡倉覚三などと会食して、久振りに雅談を試みたことを記憶している。
 その時彼は「このごろ矢野公使-文雄-が北京から、乾隆時代の紙を送って来たから、その紙に雅邦翁の画を書いて貰い、貴君に献上しょう」などといったが、やがて彼はそれを果たすに達あらずして逝いた。予はそのことを覚えていて、改めて親しく雅邦翁にきごうを乞い、翁ほこれを快諾し、翁が特製したる雅邦紙に、四季の絵を描いてくれた。
 予は当初翁に向って、「筆墨を最も少く使い、而して画趣を最も多からしむる画が欲しい」と注文したが、翁はその注文を真正直に受けて、描いてくれた。予も感激のあまり、予としては相当なる謝礼をし、それは今なお大切に保存している。
 
(つづく)

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