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片野勧の衝撃レポート・太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災⑪―中国引き揚げと福島原発(下)

   

片野勧の衝撃レポート
 
太平洋戦争<戦災><3・11>震災
 
『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』
中国引き揚げと福島原発(下) 
 
             片野 勧(フリージャーナリスト)
 
 
 
置き去りにしない社会を
 
社会の効率性や利便性ばかりを追求するのではなく、誰も置き去りにしない社会をつくる――。原発事故で被害が大きい浪江町や飯舘村、南相馬市を回ってみて思うことは、この一点である。
 
橘さんは3・11福島県民大会でこう話を結んだ。
「子どもたちは『お父さん、お母さんは戦争に反対しなかったの』と言ったように、『お父さん、お母さんは原発に反対しなかったの』と言うでしょう。放射能に汚染されているのですから、当然の質問です。…(中略)私達は人類と共存できない核の原発はもうたくさん、いらないと声を出しましょう。地震は止められないけど、原発は人間の意志と行動で止められるはずです」
 
戦場に行った人も、国に残った人も、あの世代の人々が例外なく体験した戦争。67年が経過しても忘れられない戦争体験。中には目の前で肉親を失った、あるいは敵兵を殺したという、二度と思い出したくない人もいるに違いない。
私は中国山東省済南市から引き揚げてきたという人に会うために福島県白河市を訪ねた。2012年8月19日――。その方の名は松木清秀さんという。大正10年(1921)年4月生まれの92歳である。
 
松木さんは青年師範学校に合格したが、貧しい家計を考えて国鉄に入社した。常磐線の仙台~平間を乗務していたが、昭和17年(1942)1月、鉄道隊員として北京の鉄道連隊に入隊。支那派遣軍装甲列車隊の情報作戦要員として参加した。
 
日本人女性6人が裸体で死んでいた
 
終戦を徐州で迎えたが、ソ連軍が侵入してきて、昭和21年2月15日まで戦う。済南市に残された装甲列車隊は武装解除され、青島(中国山東省)に向かって歩いていたところ、3日後、異様な光景を目にした。
 
青島の入口に日本人女性6人が裸にされて死んでいた。強姦されたらしい。また白骨死体が散乱していた。歩けなくなった老人にも会った。老人は「私はまもなく死ぬが、せめて県人の方がおりましたら、この紙を届けてください」と住所と名前を書いたものを差し出しながら息絶えた。
 
飲まず食わずの行軍を続けた松木さんたちは3月末、やっと青島に着き、4月9日に乗船して中国を離れ、4月19日、佐世保港に着いたのである。
実家の双葉町に帰ってきたのは、昭和21年(1946)4月23日。国敗れて山河あり。戦争で敗れた町はすさんでいた。松木さんはC級戦犯とみなされ、公職追放で国鉄に復職できなかった。しかし、松木さんは町役場に雇ってもらって、教育委員や福島県社会福祉協議会役員、町誌編纂副委員長などを務めた。
 
松木さんは、まぎれもなく戦争の中で育ち、戦局がどんなに不利が伝えられようと、日本が負けるとは夢にも考えていなかった。当時、日本人の誰もがそう信じていた。しかし、日本は戦争に負けた。
負けた途端に、周囲の様子が一変した。日本に引き揚げるまで中国の山東省済南市にいた松木さんは、支配者が囚人にされるというどんでん返しの体験をした。
「日本人のくせに」
中国人から吐き捨てられるように言われた。立場が逆転したとき、人間はどんな態度に出るのか。松木さんは、その時の恐怖と怯えを今も忘れない。
「誰かが悪いのではありません。戦争が悪いのです。私たちのような不幸は2度とあってはなりません」
戦争体験者の高齢化が進む中、自身の戦争体験の悲惨さと平和の尊さを伝えていきたいと松木さんは願う。
 
3号機の爆発音を聞いた
 
90歳を迎えて、「やっと良き人生を」と思った矢先に原発事故が起こった。双葉町の自宅は福島第一原発から約6・5キロ。2011年3月14日、3号機の爆発音を聞いた。
「B29の爆撃のような、すごい音でした」
松木さんは放射能に追われて転々とした。双葉町から西郷村にある「国立那須甲子青少年自然の家」へ避難した。ところが、妻の愛子さん(87)が発病して、白河の病院から東京大森の日赤病院に。続いて相模原、横浜の病院へ転々とした。娘の介護を受けながら避難から200日以上過ぎ、やっと長男(58)が住む現在の白河市の仮設住宅に落ち着いたのは2011年10月17日だった。
 
『避難放浪記』望郷の山河を短歌に
 
清秀さんは転々としている間、短歌や詩を詠んだ。その作品を福島県いわき市に避難している友人に読んでもらおうと思って、約20点の作品を送った。すると、2012年2月初め、16ページの小冊子に仕立てて送り返されてきた。松木さんは『避難放浪記』と題名をつけた。その『避難放浪記』は、ふるさとや原発への思いをつづっている。
 
たとえば、放射能への怒り。
「放射能の散逸は今日いまだ収束を知らず、吾が家を去りて已に幾星霜、寒風の中残雪を踏み、酷暑、熱風に耐えて避難の地を転々と移動す」
この詩は横浜で避難していた時に作ったものだ。また『避難放浪記』はふるさとへも向かう。
「はるかに故郷、双葉の空をあおぎて想い起せば 春はらんまんと咲く前田川の桜花を楽しみ、夏が来れば青松白砂の双葉海岸に遊び 秋は又紅葉の美をほこる阿武隈の山並をながめる 今卒寿を過ぎし吾が人生は放浪のつらさを知り、さらに時の流れに翻弄されし避難の身のはかなさよ」
原発事故のために、我が家に帰れず、ふるさとが恋しく、この思いを詩に託したのである。
 
今、松木さんは東北三名城の一つと言われる福島県白河市の国史跡小峰城そばの仮設住宅で、妻の愛子さんと暮らしている。松木さんは双葉町に住んでいた当時、公民館の歴史教室の講師を務め、小峰城跡を何度も訪れていたという。
 
そうした縁から松木さんは2日に1度は小峰城跡に足を運び、大きく崩落した石垣の様子を見て回っている。「城を枕の武士達が血しおを染めし石垣は地震のためにくずれ落つ」(「ああ小峰城」)という詩も詠んだ。
松木さんはいつ帰れるかわからない。しかし、自分たち双葉町民の生活再建の日を城の再生に重ね合わせているのだろう。
 
漫画展 中国からの引き揚げ~少年たちの記憶」
 
ある展覧会に心を惹きつけられている一人の老人がいた。「漫画展 中国からの引き揚げ~少年たちの記憶」(2011年1月28日、原町中央図書館・大会議室)――。
「満州での生活のことも、敗戦による日本への引き揚げの様子も、本当にこの『漫画展』の1枚1枚の絵と全く同じで、私は同様の体験をしてきました」(会報誌『九条はらまち』No.162)
 
その老人はこう語る。彼の名は南相馬市原町区大町に住む青田誠之(ただゆき)さん(75)という
この漫画展は日本中国友好協会が創立60周年記念企画として催したもので、今も各地で開かれているという。ちばてつやさんや森田拳次さん、石子順さん、赤塚不二夫さんら12人の漫画家の代表作が飾ってあった。中国東北部の生活から引き揚げ列車、引き揚げ船、子どもを守る父と母の力……。漫画は引き揚げの日々を浮かび上がらせていた。
 
青田さんは赤塚不二夫さんの絵の前で釘付けになった。お母さんのリュックに不二夫がしっかりつかまって、その不二夫に妹の寿満子がつかまって、綾子を背負った寿満子に宣洋がつかまって歩いている絵だった(中国引揚げ漫画家の会編『少年たちの記憶』)。
「この絵は、まるで自分が当時に戻ったような錯覚を覚えました」
 
お腹に赤ちゃんがいたお母さんのリュックにつかまっている7歳の誠之さん、1歳の弟を背負った妹さん、そして弟さん。この絵はまさに青田さん一家が引き揚げる時の情景と全く同じ。
 
引き揚げの途中、2人の弟が死去
 
ところが、青田さん一家は引き揚げる途中、お腹の赤ちゃんは生まれてすぐに亡くなり、また同時に妹に背負われていた1歳の弟も死んでしまう。お母さんの乳も出ず、食糧もなくてみんな栄養失調で死んでいったのである。
 
食べ物もなく死んでいった、それら日本人の遺体は満州の広い畑の中に掘られた大きな穴に埋められた。青田さんの死んだ2人の弟も離れ離れに埋葬されてしまった。
森田拳次さんの引き揚げ列車の絵の前でも、青田さんはじっと目を凝らしていた。
「どこの駅から乗ったかは分かりませんが、森田さんの絵と全く同じで引き揚げ列車は船の出る葫蘆(ころ)島まで行きました」
 
その列車は屋根のないもので日本人がびっしりと乗っていた。時々、列車は止まり、野宿したこともたびたびだった。葫蘆島にたどり着くのに数カ月かかったらしい。満州の南端の港・葫蘆島に引き揚げ船が待っていた。青田さんの話は続く。
「ちばてつやさんの引揚船の絵と同じで、私たちが乗った船はとても大きな貨物船でした。アメリカの船で底が平でした」
 
青田さん一家は船底で過ごした。東日本大震災の避難所みたいに、みんな布団を並べて……。隣には両親のいない小学生の姉妹がいた。しかし、栄養失調で2人とも死んだ。口や目や鼻からウジが出ていた。そして白布に包まれて海葬で海に投げられたという。
4日間ぐらいで佐世保港に着く。生まれて初めて見る日本の美しさに声をあげた。
「ワァー、きれい! 緑に包まれた山々とさつまいも畑は本当に美しく大変感動したことを覚えています」
青田さんの体験手記は続く。
 
――「昭和20年(1945)8月15日、終戦。小学2年生で7歳だった。日本の敗戦とともにソ連軍が侵入してきて、日本人の男をシベリアの労働力にするためトラックに強制的に乗せて連れ去った。
父もトラックに乗せられ、そばにいた自分も一緒に乗った。しばらく走ってから『子供はいらない』と言われ、トラックから降ろされた。幸い、父はすぐに解放され、家族と合流した」(『九条はらまち』会報No162)
 
――「もし、この時、トラックから降ろされなかったら、どうなっていたか……」
ソ連参戦後の逃避行中に多数、惨死した例は多い。凍死や栄養失調で、あるいは銃殺で。シベリア抑留者の中には、厳寒の環境の下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことによって多くの日本人が死亡した。
 
その死者数はアメリカの研究者ウイリアム・ニンモ氏によると、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千人で事実上、約34万人の日本人が死亡したという(『検証―シベリア抑留』平凡社新書)。
 
国家による「棄民」
 
私は、この青田さんの証言を読んでいて、国家による「棄民」について考えた。現在も、過去とは違う形態であれ、国家が国民の一部を「見棄てる」事態は繰り返されているのではないのか。いや、それは現に起きていることではないのか、と。原発事故の被災者を見よ。いつ帰れるか、いまだに逡巡しているではないか。    
 
 
片野 勧
1943年、新潟県生まれ。フリージャーナリスト。主な著書に『マスコミ裁判―戦後編』『メディアは日本を救えるか―権力スキャンダルと報道の実態』『捏造報道 言論の犯罪』『戦後マスコミ裁判と名誉棄損』『日本の空襲』(第二巻、編著)。近刊は『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)。
 
 

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