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 片野 勧の衝撃レポート⑥「戦争と平和」の戦後史⑥『八高線転覆事故と買い出し』死者184人という史上最大の事故(下)■『敗戦直後は買い出し列車は超満員』▼『家も屋敷も血の海だった』★『敗戦直後、鉄道事故が続発』●『今だから語られる新事実』

   

 

「戦争と平和」の戦後史⑥

  片野 勧(フリージャーナリスト)

八高線転覆事故と買い出し ■死者184人という史上最大の事故(下)

■家も屋敷も血の海だった

再び、源次郎さんの長女・静江さんの話。

「それで家に帰って、肩を狭くしてじっとしていたら、死んだ人やケガした人が家に運ばれてくるのね。親たちは、その遺体を世話するのに必死でした。家の中は死人とケガ人でいっぱい。すごかったですよ。もう血の海でした。

畳も何もかも、血だらけ。家も屋敷も血でいっぱい。畑にも遺体が並べられていました。その日は家に医者も看護師もきました。父も一緒に介護していましたよ。夜分も、ずっーと……。覚えているのは、その時の恐怖だけです」

当時、道路は舗装されていなくて、砂利道だった。その砂利が血で茶色っぽく染まっていた。静江さんは話を続ける。  「雨が降るたびに、茶色の水が流れるんです。その道を裸足で歩いたこともありましたよ」

――父親の戦争体験は?  「戦争に行っていたようですけど、あまり戦争体験を話してくれなかったですね。聞くと、ただ『うん、うん』というだけで、笑っているの。でも、戦争に駆り出されて、大変だったみたい」

■敗戦直後は買い出し列車は超満員

 

imagesさらに話を続ける。

「敗戦直後は買い出しで、みんなリュックを担いでいましたよ。汽車はいつも超満員でドアは閉まらない。窓から顔を出してデッキに落ちるほどでしたね。八高線の事故も人間の重みで、スピードを出していたから、カーブを曲がり切れなくて脱線したのではないのかしら」

買い出し列車――。男の復員服姿、女のもんぺ姿、手製の買い出し用リュック……が、あたりに四散していたのは、買い出し列車のれっきとした証拠。  当時、食べる米は配給米。しかし、配給米だけではお腹が空っぽで死んでしまう。その年の10月11日、山口良忠判事が配給食糧による生活を守り、栄養失調で死亡したこともあった。

ともかく、今の若い人には配給米といっても分からないだろう。そのころ、警察取り締まりによる主食供出――いわゆる強権供出が訓示され、米はすべて国家が管理していた。だから、国民の食べる米は、国が国民に支給していた、つまり配給だったのだ。

ちなみに、配給米は1日1人、たったの2合1勺(300グラム)だったから、1食あたりにすると、100グラム。一人前の大人が茶碗一杯の米しか食べられないのだから、腹は空っぽ。人々はイモ、カボチャ、野草を食って飢えをしのいだ。そんな状況の中で、買い出し列車は全国各地で走っていたのである。

私は八高線事故現場から200メートル足らずの場所にある「鉄道チャレンジクラブ」の代表・清野浩志さん(65)にも、お会いした。2016年9月18日午後1時――。同クラブは「鉄道文化を考え、世の中を考え、表現活動をする民間の個人の集い」。活動はクラブメンバーの無報酬の参加によって支えられているという。

清野さんは事故68年目の2015年2月25日午前10ごろ、、「八高線事故慰霊碑」の現場に行ったところ、慰霊にきていた人に出合う。Mさんという。彼は当時、中学生だった。

食糧難で知人の家にイモをもらいにいくために、東飯能駅から、この列車に乗ったという。しかし、列車は超満員。客車には乗れずに、蒸気機関車の石炭車に乗って定刻を7分遅れで高麗川へ向かったという。

■今だから語られる新事実

ところが、である。Mさんの証言。  「石炭車からは運転席の様子がよく見えていました。東飯能を発車した蒸気機関車には運転士と運転助手の2名がいましたが、なんと、2名は運転席にはおらず、機関車の釜を使って飯盒で飯炊きをしていました。

 

鹿山峠まで無人運転状態の機関車は、そのまま峠を越えて下り出すと、スピードは加速されていますから、転落事故のカーブまで、ジェットコースターなみの運行となりました。鉄の棒に飯盒をぶら下げて、蒸気機関車の釜をあけていた運転士らは飯炊きに夢中になっていました。ですから、スピードが出過ぎて、あわててブレーキをかけたために転覆したという風に報道されていますが、それは真っ赤なウソです」

ブレーキなしで暴走し、そのために連結器が外れて客車が畑に落ちたというのが、真実だというのだ。さらに運転士はMさんにこう言ったという。「このガキ、いま見ていたことは誰にも言うな。言うと死刑になるぞ」と脅され、機関車を降ろされたという(会報『鉄道チャレンジ2016年春号・128号)。

この証言が事実なら、この事故は恐るべき人災というべきだろう。  今だから語られる新事実――。そのころ、国民の多くは食糧難の中で、つましい食を求め、懸命に生きようとしていた。そんな中で、尊い命が奪われていった無辜の人々がいた。

その一方で、たとえ終戦直後の混乱の時代とはいえ、最も安全運転を心掛けなければならない立場の人が暴走し、多くの命を奪う。その教訓は今、生かされているのだろうか。

事故の原因は22歳の運転経験の未熟な運転士で、スピードの出し過ぎに驚いて、急ブレーキをかけたこと。また買い出しで超満員の車両は重心が高くなり、遠心力が強く働いたことなどが脱線転覆の原因と指摘されている。

この運転士と国鉄の責任を明確にするため運転士は起訴されたが、1審で無罪、2審で控訴棄却になった。結局、敗戦直後のどさくさの中での事故であること。車両の整備もままならないこと、などの理由で無罪となった。

 

■DVD『八高線 高麗川事故』

私は清野さんから約30分のDVD『八高線 高麗川事故――その「想い」に捧げる』(企画制作・鉄道チャレンジクラブ)という記録映像を頂戴した。家に帰ってから、そのDVDを観た。  事故現場の写真が次々と映し出されていく。バラバラに大破した客車、救助活動に当たっている人々、撤去作業をしているアメリカの進駐軍……。言語に絶する地獄絵が次から次へと展開されていく。

映像は一転して北海道のある姉妹の実写へ。2012年4月24日。事故後、65年の歳月が経過していた、この日、北海道からご遺族の、ある姉妹が清野さん宅を訪ねてきた。その姉妹は70歳を超えていただろうか。お姉さんは語った。

「うちのお父さんが八高線の列車転覆事故で死んだということを最近、知ったものですから、その時のお話を伺いたいと思いまして」

清野さんは2人を高麗川の鹿山カーブの現場に案内した。「ここが列車が突っ込んだ場所ですよ。ほとんど当時のままです。畑もそのままです」  さらに清野さんは2人に語りかける。「毎年、2月25日になると、ご遺族の方が献花においでになります。慰霊碑はたくさんの花と供養物で埋まります」と。

■「お父さーん、来たよ」 

姉妹は慰霊碑に水をかけたり、菊の花を供えたりしていた。土手の下には、ところどころに鉄片や古い敷石があった。朽ち果てた木の慰霊碑の残骸も畑の片隅に眠っていた。お姉さんは言った。

「お父さんの形見にしますので、小石を1つ、もらっていっていいかしら?」  「当時のものかどうか分かりませんが、どうぞ、どうぞ」と清野さんは答えた。  「ここで父が亡くなり、私たちの人生はすっかり狂ってしまったんですよ。妹は母のお腹にいて、父の顔は知らないんです」

こう言って、お姉さんは目に涙を浮かべていた。そして慰霊碑の前にたたずむ。  「お父さーん、来たよ。生まれて初めて来たよ。お母さんが教えてくれなかったから、何も知らなかったんだ。今まで来れなくて、ごめんね」

姉妹は手を合わせ、合掌していた。1秒、2秒、3秒……。合掌は時間にして2、3分だったろうか。その間、妹さんもハンカチで目を抑えていた。父と無言の対話をしていた姉妹にとって、列車転覆事故から65年という歳月は何を意味していたのだろうか。  もし、戦争さえなければ、買い出しはなかっただろうし、脱線事故もなかったかもしれない。慰霊碑の左にお姉さん、右に妹さんが立って、記念の写真に収まっていた。DVDの映像記録はここで「ザ・エンド」――。清野さんはDVDの最後に、こう綴っている。

「ありとあらゆる不合理な死に方をした人々がいる。生き残った私たちだから、その不合理を、問い考えていける知恵があるはずだ。そういう人間の知恵が未来をつくれるに違いない」――。

すでに述べたように、事故を起こした列車は、食糧難の真っただ中で起こった。飢餓に苦しむ人たちが、買い出しに行って遭難した。私は、そうした人々の思いや悲しみを求めて、八王子周辺も探し歩いた。幸運にもそのうちの何人かの人たちから話を聞くことができた。

その1人は神(じん)恵子さん(75)といった。現在、横浜市青葉区美しが丘に住んでいる。  ――買い出し列車に乗って亡くなられた方は?

「母と兄です。母は38歳、兄は小学6年でした。父は脱線事故の半年前の38歳の時、肺結核で亡くなりました。病死です」  神さんは姉、兄の3人兄弟。両親を亡くされ、孤児になった。

■8・1八王子空襲で家は残ったが……

――事故の時はどこにおられたのですか?

「八王子の本郷町といって、駅から近いところです。敗戦ちょっと前、8・1八王子空襲でほとんどの家が焼けましたが、我が家だけは残りました。私は当時、3歳。母の背中におぶさっていたことを覚えています。浅川の橋の河原に逃げたんですけれども、河原は赤く燃えていました」

空襲が激しくなると、縁故疎開した。母の実家の青梅に疎開。小さな掘っ立て小屋にみんなで寝た。疎開は1年ほど。その間、恵子さんは野山を走り回っていたという。  「昔は本当に貧しかった。朝鮮戦争が始まる前は、私は山を歩いて、山菜や草など食べられるものなら、何でも採ってきましたよ」

恵子さんは昭和40年、23歳の時、結婚。男と女の子に恵まれた。「今はとても幸せ」と恵子さんは言いながら、「実は昨年の2月25日、息子と一緒に脱線事故のあった八高線高麗川駅近くの現場へいってきたの」  そう言って恵子さんは言葉を継いだ。

「事故のあったあの日(1947年2月25日)の朝、連絡があって姉と兄と3人で高麗川にいったんです。寒いのに、蝶々が飛んでいたのを覚えています」  その事故から間もなく70年。しかし、年々、風化していくことを恵子さんは危惧しているようだった。

■敗戦直後、鉄道事故が続発

敗戦直後の鉄道は買い出しや引き揚げ輸送で混乱していた。その上、レールは疲弊し、機関車も客車も不足していた。そんな状況の中で鉄道事故が続発した。ちなみに敗戦直後の1945年の主な鉄道事故を上げると(久保田博『鉄道重大事故の歴史』グランプリ出版)ーー。

8・22=肥薩線のトンネル内事故。  8・24=八高線の閉塞扱いミスによる列車衝突事故。  9・6=中央線笹子駅構内の仮眠による列車脱線事故。  10・19=東海道線機関車ボイラー破裂事故。  11・3=福知山線の列車火災事故。  11・18=神戸電鉄の過速による電車脱線転覆事故。  11・19=東海道線の制動制御ミスによる列車追突事故。  11・27=津山線での車軸折損による列車脱線事故。  12・6=近畿日本鉄道の制動制御ミスによる電車脱線転覆事故。  ――といった続発ぶり。

私はJR東日本八王子支社企画部にも話を聞いてみた。  ――先日、「八高線事故慰霊碑」を見て、現地周辺を取材してきましたが、その慰霊碑を建てた代表者のお名前、ご連絡先をお教えいただけないでしょうか。返ってきた言葉。  「まず把握しているかどうか分かりません。たとえ、把握していたとしても個人情報保護法でお話しできるのは難しいと思います」

■事故の恥部を闇に葬ってよいのか

 

――記録は残っていないのですか。  「古い話ですし、それを専門的に調査している担当者もいない。どこにあるのかも分からないし、情報を開示していいものなのか、という意思決定も当然、必要になりますので……」

こんな調子で、「情報は教えられない」の1点張り。事故の恥部を闇に葬ろうとするJR東日本の防衛意識を垣間見た。しかも、記録一つおいていないとは……。私は思った。

本来なら、慰霊碑はJR東日本が建てるべきだと思うのだが、なぜ、建てないのか。それでは亡くなられた犠牲者は永遠に浮かばれないのではないのか、と――。  この教訓を本当に生かそうとしているのか。安全対策に、どれほど真剣になっているのか、とーー。

(かたの・すすむ

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