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片野勧の衝撃レポート(67)戦後70年-原発と国家<1955~56> 封印された核の真実 「平和利用原発なくして経済発展なし今なお、解除されていない緊急事態宣言(下)

   

片野勧の衝撃レポート(67)

戦後70年-原発と国家<1955~56> 封印された核の真実

「平和利用原発なくして経済発展なし今なお、

解除されていない緊急事態宣言(下)

片野勧(ジャーナリスト)

ビキニ事件から日本の原子力開発が始まった。

旧軍人グループやGHQの諜報部隊関係者など、中曽根とアメリカを結ぶチャンネルはいくつもあっただろうが、予算案提出の裏でどのような情報のやり取りがあったのかは、つまびらかでない。
ただ、いえることは、日本の原子力発電はビキニ事件の交渉と引き替えに出来上がったものであり、ビキニ事件から日本の原子力開発が始まったといってよいだろう。
中曽根は1955年8月、ジュネーブで開かれた第1回原子力平和利用国際会議に出席した。この会議には、のちに日本原子力研究所の理事長になった駒形作次博士や前田正男(自由党)、志村茂治(左派社会党)、松前重義(右派社会党)の3人が日本代表団の顧問として同行した。
中曽根を原子力開発に駆り立てたのは、工業力や技術力において実際にわが国より遅れていると思われたインドの存在だった。会議の議長をインドの物理学者バーバラ博士が務め、「インドではトリウムを使って研究を始めている」と言ったことも、その印象を強めた。中曽根の証言。
「外国での原子力事情が進んでいるのを知って、日本も遅れてはならないと思いました」
会議が終わった後、中曽根らの議員団はイギリス、フランス、アメリカ、カナダに赴き、原子力の研究開発に関する行政体系、研究所、基本原則などを詳細に調査して回った。中曽根ら4人は毎晩、ホテルの一室に集まり、激しく討論を交わした。原子力研究開発を含む日本の科学技術政策の立案、科学技術主管官庁の設立などについても議論を交わした。
同年9月、羽田に帰り、超党派で4人による声明を発表。日本の原子力研究開発体制の整備が急務であることを訴えた。その後、4党の合意により、衆参両院議員(労働者農民党と日本共産党を除く)の超党派の協議体として原子力合同委員会を組織し、原子力法体系をとりまとめることになった。各党の委員の中には社会党の成田知巳、勝間田清一らもいた。

原子力基本法など8本の法案が成立

当時、改進党の中曽根は予算委員会の筆頭理事だった。何の根回しもせずに、あっという間に原子力基本法、原子力委員会設置法、核原料物質開発促進法、原子力研究所法、原子燃料公社法、放射線障害防止法、原子力法体系、科学技術庁設置法が成立した。半年以内に8本の法案が議員立法で成立したのである。
特に原子力基本法については超党派的性格を強める必要から、学術会議の要望も取り入れて検討した。その結果、原子力の研究開発利用は、第1に平和目的に限定すること。第2に民主、自主、公開の3原則を遵守すること。第3にいかなる国とも国際協力すること、となった。原子力委員会の委員は湯川秀樹、有沢広巳、石川一郎、駒形作次だった。
中曽根はこう豪語する。
「戦後の政治家で重要な議員立法をつくったのは、僕と田中の角さん(角栄・故人)だ。僕は原子力関係、角さんは高速道路関係で」(「朝日新聞」1980/6・24)
中曽根は自ら原発関係の第一人者と公言してはばからない。
原子力予算を国会に提出し、原子力利用準備調査会にかかわり、正力松太郎の前に原子力合同委員長を務め、その後は原子力委員長兼科学技術庁長官になるなど、日本の政治家の中でも最も原子力行政にかかわり、かつ広範で深い知識をもった中曽根の動向を米中央情報局(CIA)は見逃すはずはない。

黒く塗りつぶされていた中曽根ファイル

公開された米公文書館には驚くほど膨大な「中曽根ファイル」がある。黒く塗りつぶされていた文書で、中曽根の発言から行動に至るまで、政治活動全般にわたる詳細な記録が残されていた。アメリカが、いかに中曽根を重要視していたかがわかる。
1949年から1960年ころまでの中曽根の言動をまとめた「中曽根ファイル」は、的確に彼の性格をとらえていた。中曽根は民主党、さらに改進党の議員の時代、反吉田茂首相の急先鋒に立つ“青年将校”と呼ばれた。
中曽根といえば、得意の弁舌とパフォーマンス、変わり身の早い「風見鶏」の異名、

そしてロナルド・レーガン米大統領との「ロン・ヤス」関係が思い出される。スタンドプレーとも評されるほど、派手な行動を繰り広げた。

春名幹男著『秘密のファイル(下)――CIAの対日工作』(新潮文庫)によると、

1954年9月30日、米陸軍情報部は中曽根の言動を、要旨次のようにまとめている。
【新進政治家】1949年9月、「青雲塾」を結成し、反共愛国運動に積極的に参加。
【責任が増す】1951年1月、国際共産主義、平和・非武装に反対する国土防衛研究会に参加。
【アジアの団結】1953年1月、青雲同志会で演説、講和条約と日米安保条約からの撤退と真の独立、アジアの団結を主張。同6月、群馬県で演説、米軍による浅間山、妙義山での演習に反対。
【中曽根が第一】同7-10月、ハーバード大学国際セミナーに短期留学。
【アドバイザーを自任】1954年1月、ニクソン米副大統領に「アメリカが対日関係で過ちを犯したと認めたら、米提案に従う」とアドバイスした、と主張。
【政治フットボール=原子力研究】1954年、研究用原子炉建設を提案。原爆製造に使われる恐れ、との批判を受けて、原子力平和利用に限定する、との条件を付与。予算額を減額。
【“共存”に賛成?】1954年7月、ストックホルムの世界平和集会に参加後、ソ連、中国を訪問。①日本は中ソとの関係樹立を検討せよ②親米の吉田政権を打倒せよ③日本の再軍備で米軍撤退を――と主張した、などなど。
米情報当局は、中曽根の風見鶏的な性格をしっかりと把握し、彼の右翼的で米国に好意的な見方をしていなかったことが、このファイルで見て取れる。その一方、中曽根は世界の諸問題を自分の政治的目的に利用するのがうまく、将来大物になる可能性はなくはない、とも指摘している。
中曽根とアメリカの接点は意外なところからも見えてくる。アメリカの軍事情報を欲しがる中曽根と持ちつ持たれつの間柄にあった当時、軍事評論家の第一人者・大井篤の証言。彼は戦艦「日向」や「扶桑」に乗り込んだ海軍大佐。
「中曽根のほうから僕に頼んできたんだよ。1953年だったか、彼がハーバードに留学中、アメリカに突然、呼びだされて迷惑したことがある。中曽根は僕がアメリカに滞在していたことを知っていて、軍事施設を案内してくれと言うんだ。バージニアのノーフォーク海軍工廠、アナポリスの海軍兵学校、ウエストポイント陸軍士官学校、アメリカ上院の外交委員会まで案内した。彼は僕を自陣営に引き込みたかったんだろう」(月刊誌「VIEWS」1995/1)

中曽根もCIAとつながっていた

中曽根は大井を媒介としてアメリカと結びついていた。CIAの人間ともつながっていた。たとえば、アメリカ国防省人名記録課に保管されている膨大な中曽根ファイルの中には、在日アメリカ大使館がアメリカ国務次官に宛てた文書(1961年3月8日付)もある。
「前科学技術庁長官中曽根康弘が、国務次官との30分間の会見を希望している。今回の彼のアメリカ訪問の表向きの目的は、アメリカの宇宙技術と原子力技術の研究。しかし、対池田(勇人・故人)党派内闘争の有利なネタ探しが主な狙い。野心家の中曽根のことだから、話の内容がどのようなものであれ、組織代表として公式会見だったなどと利用される恐れがあるが、アメリカの極東政策の展開を彼には見せておく必要があるから、会ってあげてほしい」(前掲書『VIEWS』)
このように中曽根は懸命にアメリカにすり寄り、アメリカの最重要対外戦略であった「アトムズ・フォー・ピース」に積極的に加担していた。日本に原発を導入することによって獲得したアメリカの信頼こそが、後年、彼が首相の椅子に昇りつめさせる原動力になったのは間違いない。

日本からの核訓練プロジェクトは250名

アメリカ原子力委員会の文書についても触れておこう。
「55~65年の10年間に、67カ国から約3000名が訓練を受けた。日本からは250名が訓練に参加。アメリカ原子力委員会の施設見学者は900名に達した」。また対日心理戦機密文書「日本人の知識人」(55年度)には「日本人物理学者6名が原子力プロジェクトで訓練中」と。
この核訓練は見事に功を奏して、その後の日本原子力関係の第一線で活躍している人物の多くは、この核訓練プロジェクトの経験者で占められていた。
1956年1月13日。鳩山一郎内閣は日本初の研究用原子炉を米国から輸入することを閣議決定した。茨城県東海村に日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)が建設され、翌年の57年9月に完成した。
ただ、この研究用原子炉の提供は日米原子力協定に基づき約束していたもの。出力もわずか50キロワット。電気を生み出す発電用原子炉ではなかった。

日本初の原発は英国製「コールダーホール改良型炉」

56年10月、原子力委員会は英国へ調査団を派遣する。団長は委員長代理で元経団連会長の石川一郎。嵯峨根遼吉も同行した。調査団報告を受けた委員長の正力松太郎は「コールダーホール改良型炉原発は輸入に適している」と表明。日本初の原発建設は事実上決着した。それから10年後の1966年に稼働。原子力に明かりが灯されたのである。
1957年2月に岸信介内閣が誕生する。現在の首相安倍晋三の祖父。親米で再軍備派だった岸の登場は原発建設に踏み出した日本で、もう一つの「核」、すなわち核兵器配備の議論を浮上させるきっかけとなったのである(中日新聞社会部編『日米同盟と原発』)。

                                  (かたの・すすむ)

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