『リーダーシップの日本近現代史』(190)記事再録/『忘れられたユーモアある哲人政治家・田淵豊吉―太平洋戦争中に東條英機首相を批判した反骨でならし『世間では仙人と呼んでいるが、わしはカスミの代りに飯を食い酒も飲む、だから半仙人とでもしておこうか、と大笑い』 2019/12/09
逗子なぎさ橋珈琲テラス通信(2025/10/31am1100)
2010年9月7日/日本リーダーパワー史(92)記事再編集
閉塞状況を突破するために奇人政治家・田淵豊吉を見習え
<河村名古屋市長・橋下知事の先輩は田淵豊吉・・・>
前坂俊之(ジャーナリスト)
2010年9月7日の記事
こうした政治のながいながい混乱見るにつけ、最近よく思いだすのが、田淵豊吉―東条英機に反対した奇人・仙人政治家―です。彼は昭和戦前期に正論を展開し、軍事政権を正面から数少ない政治家です。もっともっと見直されてしかるべき政治家ですし、大変ユーモア、ジョークのあった面白い政治家です。日本の政治家の欠点はジョーク、笑いがないことです。コミュニケーションで肝心なのはユーモアの精神ですが、国会での論戦を見ても、官僚国家ですね、もんきり型の役人答弁、質問ばかりで世界観や哲学がありエスプリが効いた会話が余りにも不足しています。
田淵豊吉―東条英機に反対した奇人・仙人政治家
田淵豊吉は大正末から、昭和前期に活躍した哲人・奇人政治家、「田淵仙人」と呼ばれた。太平洋戦争中に東條英機首相を批判した反骨でならし『世間では仙人と呼んでいるが、わしはカスミの代りに飯を食い酒も飲む、だから半仙人とでもしておこうか』と豪快に笑い飛ばしていた。
明治15(1882)年2月、現在の和歌山県御坊市で酒造業の四男に生まれた。病弱のため小学校で遅れ、クラスの最年長者となり、『オトウ』のあだ名で、『父』のように慕われた。
中学時代には英語は図抜けてよくできたが、その勉強法は雪隠(トイレ)の中にウェブスターを一冊つるしておいて、便所には入る度に、1,2分で、単語をいくつか暗記して、頭の中に、たたきこむと一枚一枚破って、尻をふいては捨てた。1年足らずで、辞書1冊を暗記してしまった。
早稲田大に入学、弁論部に入った。雄弁の達人・大隈重信が創設しただけあって,弁論部は東都の雄弁界を牛耳っていた。田淵は永井柳太郎(のち政治家)、中野正剛(同)とともに弁論部三羽ガラスとうたわれ、その演説は一風かわっていた。演説の練習も戸塚街道の松の木の上に上って、毎日毎日道行く人々に演説して、戸塚村民の間で大評判になった。

明治41年に早大を卒業、翌年から自費でドイツ、イギリスなどに留学、政治経済と哲学を専攻したが、寒いドイツの冬でも平気で夏服と帽子1つで通したという変わり者で、大正四年(1915)に帰国した。洋行帰りなのでいくら仙人でも少しは垢ぬけして帰ってくるだろうと期待して友人たちが新橋駅で待っていると、田淵は相変らずヨレヨレの背広に顔いっぱいのひげ面で現れたので、逆にみんなは感心した。
大正六年四月の総選挙に立候補したが、惜しくも次点となり、大正九年に再度出馬して当選し、以来、大正十三年、昭和三年、十年、十二年と五回にわたって衆議院に議席をもって、無所属議員として活躍した。
関東大震災での朝鮮人大虐殺を追及して、「日本人の良心」を示す名演説を行い、昭和4年の張作霖爆殺事件では「何か奥がある、関東軍が関係があるならば総理大臣は国に謝し、世界に謝さなければならぬ」と追及、調査結果公表せよとの決議案を出した。昭和の軍国主義がますますエスカレートしていく中で、田淵はその国際感覚と幅広い知識から、戦争への道に歯止めをかける質問をいくつも行った。
明治から昭和20年までの帝国議会衆議院で、懲罰を受けたのは48議員にのぼるが、懲罰の最多記録は田淵で四回。このほか、退場命令が数知れずといってよいほどで、議会政治の理想を追求した田淵は「議事進行に関するスル発言」をたくさん行ったが、これが議事妨害ととられて、退場、懲罰の対象となり議会内では孤立していき、奇行が一層増幅された。
田淵は国会での質問がトップクラスの議員で、演説もまるで変わっていた。留学によって得た学殖豊富な事例を交えながら、自身の哲学、国家像をジョークと英語、ドイツ語などの外国語をふんだんにちりばめて大演説をぶち、大臣、議員連中を煙に巻いた。 
しかも、毎回、酒をのんで酔っ払った上で登壇し、演説の合間にコップの水を珍妙な動作で飲み干しては、大げさな身ぶり手ぶりのジェスチャーをまじえて、延々とまくし立てるので議場は爆笑とヤジの連続、そうかとおもうと、大臣や宰相たちも友達のように呼び捨ててはその肩をたたく。議事進行を連発して国会を混乱させた。議会での論議の低調さを嘆いて、酔っ払っては議会内で議員にくってかかって、殴られた回数ではもっとも多いという有り難くない勲章をもらった。
田淵の真骨頂を示すエピソードを1つ。大隈公の養子・大隈信常が政治家に立候補する意欲を示し、民政党の代議士を築地の料亭に招待した。増田義一、小山松寿、永井柳太郎、中野正剛、田淵豊吉、松村謙三ら十数人が集り、信常は「老侯の志を継いで政界に一旗上げるので、ぜひ助けてもらいたい」とあいさつした。新党を作り、民政党を裂こうというもの。
増田、永井も中野も、みな無言のままで、10分ほど一座は静まり返った。その時、田淵が若輩ながらと大声で「私ども早稲田で老侯から学問の独立は常におそわりましたが、おやじの縁故によってその息子の旗上げについてゆけという教えは聞いておりません。情実因縁についてゆかぬことこそ老侯の教え。おやめなさったほうがよろしい」とズバリと言ってのけ、信常は黙って引き上げた。(『三代回顧録』 松村謙三 著 東洋経済新報社 昭和39年9月発行)
増田、永井も中野も、みな無言のままで、10分ほど一座は静まり返った。その時、田淵が若輩ながらと大声で「私ども早稲田で老侯から学問の独立は常におそわりましたが、おやじの縁故によってその息子の旗上げについてゆけという教えは聞いておりません。情実因縁についてゆかぬことこそ老侯の教え。おやめなさったほうがよろしい」とズバリと言ってのけ、信常は黙って引き上げた。(『三代回顧録』 松村謙三 著 東洋経済新報社 昭和39年9月発行)
戦前、国会の奇人で、「仙人」とあだ名されていた田淵豊吉(無所属、和歌山県)という代議士は、丸善の本代が当時の金で毎月三百円もあったというひじょうな読書家だったのだが、いつも院内では、小わきに一冊の古ぼけた英文の『イソップ物語』を、大事そうにかかえて歩いていた。他の議員連が目の色をかえて政争にうき身をやつしているとき、ひとり超然として、まじめくさった顔つきでかかえているその『AESOP,S FABLES』 の大活字を目にすると、思わずわず吹きだしたくなるのであった。
要するに、議会なんていうものは、一つのお伽話、そこに登場する議員諸公は、たとえてみればイソップ物語に出てくる動物諸君とおなじたぐいなのだ、というしんらつな風刺だったーと毎日新聞政治部記者の新名丈夫は回想している。
第2次世界大戦に突入する時は、「この戦争は勝てん、やってはいかん!」と忠告し、「世界に三人の大バカあり、南にムソリーニ、西にヒトラー、東に東条英機である」といった話は有名である。昭和18年1月、失意のうちに病死、61歳。
新名丈夫は昭和の戦前戦後で30年以上にわたり霞が関を取材してきたが、官僚主導国家での国会の変わらない姿について「政治」(光文社・カッパブック、昭和31年刊)で次のように告発している。
議会政治のおとぎ話 楽屋裏で官僚のお膳立て、河村市長の主張の裏付け
「国会は国権の最高機関というが、それは言葉だけで、じつさいの政治は、楽屋裏で各省の官僚がやっている。議会では、たんにおしゃべりがおこなわれているに過ぎない。
主権者たる国民は、ただ四年に一ペん、そのおしゃべりを送りだすときだけ、政治に開係をもつ。あとは踏んだり蹴ったりなのだ。
血の出るような税金をしぼりとられて、一家心中までしなければならぬような目に追いこまれている国民にとって、なによりも深い関係のあるのは、自分たちの税金がどういうことにらかわれているか、ということである。ところが、その税金のつかい方・財政にしてからが、予算の編成、執行、ともに官僚が勝手にやっているのであり、国会はただ、それを「承認」するだけなのである。
血の出るような税金をしぼりとられて、一家心中までしなければならぬような目に追いこまれている国民にとって、なによりも深い関係のあるのは、自分たちの税金がどういうことにらかわれているか、ということである。ところが、その税金のつかい方・財政にしてからが、予算の編成、執行、ともに官僚が勝手にやっているのであり、国会はただ、それを「承認」するだけなのである。
だいたい、議会というものが、どうしておこってきたか。歴史的に見た場合、近代議会は、絶対王制すなわち専制君主のほしいままな収奪にたいして、第三階級(貴族、僧侶にたいし新興の商工業者)が財布のひもをしめるためにつくった抵抗の組織として成立し、発達してきたものであった。それゆえ、議会のもっとも重大な仕事は、財政の検討、とくに予算の審議なのである。しかも、こんにち、国民が主権者であり、国民が膨大な税金を払っているからには、財政も国民の意志にもとずいて予算が組まれ、運営がおこなわれねばならないはずである。
ところが、戦後のいわゆる民主化政策のーつとして新たに生まれた財政法に定められた「財政の公開」というのは、たんに予算が成立してからのち、内閣は財政一般について印刷物、講演その他適当な方法で、国民に報告する義務があることを要求しているだけなのである。予算の編成においては大蔵省主計局の官僚以外、国会議員たりとも一指も触れさせないものなのである。
「予算編成の段階において、公聴会を催すとか、議会のメンバーにはいっていただいて、いろいろ聞くということについては、ただいまは考えておりません。」
財政法が審議された昭和二十二年の第九十二帝国議会、衆諭院の委員会で政府委員が言いいはなった言葉である。」
50年前の話だが、バカなことに日本の政治は100年、今も変わっておらず政治家、役人はたらふくもらって小田原評定を続けているのである。

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