『Z世代のため百歳学入門』★『世界最長寿のギネス彫刻家は平櫛田中(107歳)です」★『世界最悪の日本超高齢・少子減少社会』から逆転突破する方法』★『いつまでも体も心も元気を維持し、生涯現役・臨終定年を迎える気魄を学ぶ』★『『今やらねばいつできる、わしがやらねばだれがやる』★『50,60洟垂れ小僧、70,80人間盛り、100歳わしもこれからこれから!』
2025/05/06
2024/09/14
「知的巨人の百歳学」(144)の記事再録編集
『超高齢社会』のシンボル・彫刻家・平櫛田中(107歳)の気魄に学ぶ
前坂 俊之(ジャーナリスト)
2012年初め、平櫛田中記念館(東京都小平市学園西町1)をたずねた。
西武多摩湖線一橋学園駅南口を下車し、江戸時代初期に築造された玉川上水の清流に沿いにできた遊歩道を歩く。両サイドには桜、松、クヌギなどが密生し、武蔵野の面影が一部残る緑豊かなところを約10分。都会とは別世界のこの自然空間を抜けると、閑静な住宅街の一角に白塀と生垣に囲まれた和風平屋建築の記念館につく。国立能楽堂を模した建築面積三三〇平方メートル余りのゆったりと落ちついた書院風の新居は、一九六九年(昭和44)に完成した。
平櫛田中が最晩年この景観に魅かれて移り住んだ終の棲家であり工房跡である。中に入ると、正面玄関横に直径二メートルを超えるクスノキがドンと置いてある。
百歳を迎えたとき、「先生の身体はまだ七十歳である」と主治医から太鼓判をもらった。勇気を得た田中は、それでは「百まであと三十年もある」と喜んで木場の材木問屋へ出かけて行き、 600万円出してクスノキを三本も買いこんだ。10年乾燥させないと使えない。つまり130歳まで仕事を続けるつもりなのだ。
百歳を迎えた際、田中は、その時の心境を漢詩に託し「百才を迎えて心がひきしまる。これからは今日一日を大切にして、千年を生きる気持ちでがんばりたい。」と決意を新たにしていた。
また、四十歳もはなれた郷里の岡山県井原市の市長あてに病気見舞の詩を送った。
わしもとうとう満百才、
まだまだ仕事が残ってる
朝から工房、晩めしがうまい
野菜のかきあげ小えびが二つ
葡萄酒ぽっちり粥(かゆ)一椀、
とろりまぶたが重くなる
ベッドにごろりたかいびき
夜中に小便二、三回
あさまでぐっすり夢を見ず
死ぬこと忘れた田中団兵衛
昭和四十七年三月三日
倬太郎拝上
百歳を超えても平櫛田中の情熱、気力はいささかも衰えを見せなかった。毎日朝から、黙々とノミをふるい、筆を執り書にも親しだ。田中の書は一流の書道家も驚くほどの達筆で、その内容もユニークで、愛される人柄がにじみ出ていた。
茶目っ気たつぷりの田中は上記のようなざれ歌を書くかと思えば、
「おとこ百からはなもみも、六十七十ははなたれこぞう、せくないそぐな 来世もあるよ」と煙に巻いた。色紙や揮毫や作品集に『真ッ百才』(マッビャクサイ)、「百也一」、「百也二」な歳などと歳をいれ、本名の「倖太郎」と書いた。
●「六十、七十 はなたれ小僧、男盛りは百から、百から。いまやらねばいつできる。わしがやらねば、だれがやる。」
●「実践、実践、また実践。挑戦、挑戦、また挑戦。修練、修練、また修練」
●「やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。今やらずしていつできる。俺がやらねば誰がやる。」
百歳のときの新聞のインタビューには「年は向こうからくるから断れんし、逃げようがない。それで、とうとう百になってしもうた。それでもまだ仕事が残っております」
このような気魄とユーモアのあふれた言葉が九十歳、百歳となっても次々に出てくるのには庄倒される。
1970年代の世界の美術家の中では、九十歳をこえても現役として活躍した人は何人かはいたにしても、百歳をこえた人は例がないのではと思う。(後注、2024現在の調査によると、豊田三郎1908年9月18日―2015年12月6日、107歳、画家)後藤はつのさん(1903年9月1日 – 2017年(5月15日)113歳)らがいる。
その意味で、ギネスブック最長寿の芸術家と言っても誤りではないであろう」「人間ざかりは百五歳」(平櫛田中著、山手書房 昭和五四年刊)
1・・・禅僧、西山禾山和尚の臨済録を聞く
平櫛田中は1872年く明治5)6月、岡山県井原市で生まれた。実家は没落し、七歳で平櫛家の養子となる。15歳で、大阪に丁稚奉公、朝から晩まで身を粉にして働く。同30年上京し、高村光雲に師事しながら、独自で木彫り彫刻の道を進んだ。
この時、下宿近くの谷中の寺で、禅僧、西山禾山(かざん)和尚の臨済録の講話を聴き、3年にわたり入門参禅した。『禅の心とは、日常生活そのもの。あるがままじゃ」という教えに大きな啓示を受けた。 さらに金剛経の1節「応無所住 而生其心」(おうむしょじゅう にしょうごしん)=こだわるな、こだわるな、人間本来、住むところなし、どこに住んでも心は同じ、仕事ができればそれでよし=が田中の重要なモチーフとなった。
彫刻の世界はそれまで日本伝統の木材を使った仏教彫刻などの木彫りが主流だったが、明治に入ってきた西洋彫刻におされて、木彫刻は衰退の一途だった。明治40年ごろ、平櫛は生涯の師である芸術上の指導者・岡倉天心と出会う。天心は芸術革新運動の1環として日本彫刻会を組織、平櫛も加わり、大正3年には天心の日本美術院研究所で西欧流の塑造研究にも取り組み、木彫刻と西洋彫刻とを融合させていった。
もともと食えない木彫刻の世界で、若いときから還暦を過ぎても長い間、貧乏の連続だった。
36歳のとき、天心に思い余って『先生、彫刻は売れません。どうすれば売れますか』と質問すると、天心は「みんな売れるようなものを作ろうとする。だから、売れないのです。他人をマネせず売れないものを作れ。そうすると、必ず売れる」という言葉にハッと気ずき、よし自分の作りたいものを作る、と決心して「活人箭」(かつじんせん)を作り、傑作として高く売れた。まさしく、「貧乏極楽、長生きするよ」の人生だった。
大正九年に代表作「転生」(48歳)や「烏有(うゆう)先生」(47歳)、天心を描いた「五浦釣人」(58歳)など・写実性と禅による深い精神性が渾然と一体化した作品を次々に作り上げて・木彫刻界の第一人者となった。
しかし、苦難が次々に襲いかかってきた。五十代後半に子供三人が相次いで結核にかかり、愛児二人を失った。悲しみから立ち直るのに数年間かかった。長年、苦楽をともにした妻も七十六歳のときに先立たれた。仕事に没頭することで、忘却し悲しみの心を奮い立たせた。
「悲しいときには泣くがよい。つらいときにも泣くがよい。涙流して耐えねばならぬ。不幸がやがて薬になる。」
平櫛田中の自伝によると、「貧乏は骨の髄までした。三十四歳で妻・花代をめとったから、晩婚といえる。そのころ平櫛は、二軒長屋のひとむねを借りて住んでいたが、作家、彫刻家の女房などというものは貧乏なもので、世帯のやり繰りには、人一倍苦労した。
生活は貧乏そのもので、月四円五十銭の家賃が、どうしても払えない。コツコツ仕事に打ち込んではいたが、作品ができ上がっても、すぐに売れるわけではない。家主は、何度も家賃の催促に来たが、貧乏で払えませんと、十か月も家賃をためたことがあった。
妻は、私の仕事にはほとんど無関係で、院の展覧会すら観に行ったこともなかったから、いっそう世帯の苦労だけが身にしみたであろう。七十七歳でこの世を去ったが、今思うと苦労のかけっぱなしで、かわいそうなことをしたと思うばかりである。
人間いたずらに多事、人生いたずらに年をとる。今やらねば、いつできる。おれがやらねばだれがやる。
人間、貧乏は我慢できるが、子供に死なれるほどつらいものはない。私は三人の子供をもうけたが、上の子二人を結核で亡くした。
そのとき、涙が出てたまらなかった。涙が出なくなるのに三年はかかる。私は自分の体験から、子供さんを亡くされた方には、「三年は泣いておあげなさい」と言っている。親が子を亡くした悲しみは、十年や二十年たったとて決して忘れられるものではないし、三年間は泣きの涙で暮らすものである。
子供たちがかなり大きくなったころであった。私の仕事も次第に認められて、内弟子が十人ほどいた。その中に胸の悪いのがいた。本人は、自分が胸のy病いであることを知っていたと思うが、彫刻がどうしてもやりたいと思うあまり、帰されるのがいやさにそのことをかくしていたのであろう。子供たちは、その弟子と一緒によく遊んだりしていたが、そのために不幸にも発病した。

三人の子供は、長女、長男と二女。この三人が、あいつぐようにして結核で倒れてしまったのである。
当時、私は頑固で、子供が病の床いに臥すまで、どれほど家内からいわれても作品の制作を依頼してもらいにいったことはなかった。
夫婦喧嘩もよくやった。ところが、子供たちが病気になってみると、治療費も転地費も要る。このときばかりは、恥をしのんで生まれてはじめて、ある日本有数の富豪のところへ借金に行ったが、ていよく断られた。
私は言葉もないほどがっかりして、家へ帰るとばったり倒れてしまった。何等かの因縁があり作品は四年か五年後に届けますからという条件つきで、これなら大丈夫と思う人のところへ行ったのだから、その打撃は大きかった。しかし、そのあと九人ほどの人から、当時のお金で二万四、五千円ほど拝借でき、そのお金でどうやら子供の治療にあてられたのであった。
長女が亡くなる前日であった。長女は髪を挽き、からだをアルコールできれいに洗い、手を陽射しにかざしてみると、青白く透きとおってみえた。
「ああ、きれいになったわ」彼女は、そう言ってよろこんだ。
亡くなる日の朝、長女は庭掃除をしていたおばさんまで呼んで、別れを告げた。
「永い間、お世話さまでした。おわかれの水をつけて下さい」
澄んだ瞳だった。唇に水をつけてもらうために、しばらく待っていたが、おばさんは泣いてなかなか水がつけられなかった。やがて別れの挨拶をすべて終えた彼女は、静かに、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
と三言唱えて、美しい往生をとげた。人間の死とはこんなにも安らかで美しいものであろうかと思われる臨終であった。
長女は十八で発病、二十歳でこの世を去った。惜しい娘であった。
病床に臥すまで、仏英和高等女学校(現・白百合学園)へ通っており、フランス語が得意だった。
私はこの娘をつれてフランスへ渡り、あちらの美術を観て歩きたいと思っていた。そのことは二人で堅く約束していたのだが、娘も心残りだったであろう。
不幸は重なるものである。長女に続いて2番目の子(長男)が、相次ぐようにしてその短命を終えた。長女の死は安らかであったが、長男は傍らで見ていられないくらい苦しんだ。腸結核であったから、腹が大きく波打っていた。苦しくなるとうめいて言った。
しあわせとは まどろみであり、不幸とは めざである
「お父さん、姉さんの唱えたように、念仏を唱えてください」
私は、念仏を唱えてやることはできたが、苦しみを救ってやることはできなかった。そうするうちに息子は苦しみに耐えかねてか、こう訴えた。
「お父さんは禅をやっている。それで禅の念仏になってしまうから苦しいんだ」
この言薬を聞いたとき、二年間も寝ていると、こんなにも利巧になれるものかと驚いた。病児に、父の境遇を看破されたのであった。
この子は、七転八倒し、窒息死ともいうべき死を迎えた。言葉では言いあらわせぬ苦しみだったであろう。人間の死とはこんなにも苦しいものでぁるのかと教えられる命終であった。
「幸せとはまどろみであり、不幸とはめざめである」とは、亡くなられた島崎博士の墓だったと思うが、こうして私は、死苦、病苦、世間苦を味わったのであった。
亡くなった子は死ぬ間際、-自分たちの分も生きて、作品をたくさんつくってくださいと言い残して息を引きとったが、その言葉は今も私の耳に残っている」 「人間ざかりは百五歳」(平櫛田中共著、山手書房 1979年)
2・・22年の歳月をかけ『鏡獅子」の大作を完成
昭和十一年、64歳で歌舞伎の名優六代目尾上菊五郎をモデルにした『鏡獅子」(座高2メートル、彩色付)の大作に取り組み、苦心惨懐の未、22年の歳月をかけ八十六歳で完成した。この累世の大作は現在、国立劇場の正面ホールに展示されている。
37年(1962)、九十歳で文化勲章に輝いた。伝達式の日、天皇から「一番苦心されたことは」と聞かれ、「それは、おまんまを食べることでした」と率直に答えた。貧乏こそが創作のバネとなったのである。
田中のすごさは、単に長寿だったということだけではない。晩年まで次々に意欲作を作り百歳過ぎても制作意欲が全く衰えなかったこと。文字通り、「60、70歳は鼻たれ小僧」で、80,90歳、100歳超えても元気に仕事を続けたことで。世界の芸術家の中でも最高齢のギネス記録ではないだろうか。
毎回決まってのインタビューでの質問の「長寿の秘訣」を尋ねられると、
「今日もお仕事 おまんまうまいよ、貧乏極楽 気長にゆっくり」とユーモアたっぷりに答えたり、百歳の誕生日には「何もありませんなあ。養生法といったものもない。庭は千坪(3300平方m)と広いが、散歩も仕事が忙しいからしない。不老不死の妙薬もない。ときどき下痢や風邪の薬を飲むくらいで…・」と答えている。
また、食事のついては「わたしは、ご馳走はあまり食べないし、たくさんも食べないようにしている。好き嫌いもないな。強いていえば小魚が好きかな。」と話し、「宴会などでたくさんご馳走が出るが、あれは無駄なことです。」と、美食をきびしくいましめていた。
百四歳のころの日課は -
・午前三時、起床。一一年前まではこのあと新聞の切り抜きをしていた
・午前七時半、食事 (好物のお雑煮など) 約三十分
・午前八時ごろ、書道、半切れ五、六枚
・正午、昼食 (インダリシュマフィン、ハムエッグなど) その後、歩く練習をしたり、指圧を受ける (火、金曜日)
・午後三時、おやつ (抹茶に和菓子少々)その後入浴
・午後六時時半ごろ、夕食(笹巻きずし)
・午後八時、就寝
あるとき世話をしているお孫さんが、老人に肉食はよくないと新聞に出ていたのを読んで肉を一週間、副食につけなかったら、「こんな肉ぬきの老人食で仕事ができるか」とたいへんご機嫌が悪かった、という。
百七歳で肺炎で床にふした田中は一九七九(昭和54)年十二月二十一日朝、突然、「私はこれから旅に出ます。お供もお弁当もいりません。あとをよろしくたのみます。」との言葉を残し,こんこんと眠りについて十二月三十日朝、東京小平市の自宅で、百八歳(満百七歳十ヵ月) の生涯を閉じた。
↑前坂俊之編著「晩年長寿の達人たち」(新人物往来社 2007年刊)

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