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『オンライン/明治外交軍事史/読書講座』★『森部真由美・同顕彰会著「威風凛々(りんりん)烈士鐘崎三郎」(花乱社』 を読む④』★『川上操六は日清戦争は避けがたいと予測、荒尾精の日清貿易研究所を設立しで情報部員を多数養成して開戦に備えた』

      2021/06/04

   2015/12/27日本リーダーパワー史(629

 前坂俊之(ジャーナリスト)

今、米中覇権争いで、台湾や尖閣諸島、南シナ海をめぐる米・中・日3国の対立がエスカレートし軍事的緊張が高まっている。本書はこの150年間の日中韓友好・対立・戦争史のルーツを知るための絶好の書といえる。森部真由美さんら同顕彰会著「「威風凛々(りんりん) 烈士鐘崎三郎」(花乱社、(A5判/並製本/414ぺージ/本体3000円+税)

http://karansha.com/

が5月3日に出版された。

内容は1891年(明治24),運命に抗うように上海に渡り,時代に翻弄され,26歳で落命する鐘崎三郎の人物像と,彼を見守った多彩な人士たちの記録です。

明治の近代精神に燃えて大陸に渡った若き鐘崎三郎(福岡県出身,1869-94)。日清貿易研究所で学び,商店経営を実践,各地を旅して経済交流の最前線に立つも,1894年,日清戦争が勃発。陸軍に通訳官として派遣されて捕縛,刑場に散った鐘崎三郎の生涯を子孫の森部真由美さん(67)=福岡市=らが自費出版したもの。

 

鐘崎の足跡を丹念に追跡し、明治に自由民権運動としてスタートした「玄洋社」(ブラックドラゴン)は昭和戦後(1945年)にGHQによって「超国家主義」のレッテルを張られて歴史から抹殺されたが、その玄洋社の人脈や、大陸を志向した九州人たちの人脈を地道にたどっている歴史ドキュメントになっている。

同時に、『烈士の面影』(大正13年刊)・『烈士 鐘崎三郎』(昭和12年刊)の両書は現代人、地元の子供たちにも読みやすい現代文に改め、その後の記録を加え増補再刊している。

さらには、同書に登場する明治維新からのそうそう人物や玄洋社の面々の人物史約50人のメモも別冊子でつくり、各図書館に配布。

地元の抹殺された歴史、人物を掘り起こして歴史認識をバージョンアップしており、大変丁寧な本づくりであるのにも感心しました。(文・前坂俊之)

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●『川上操六陸軍参謀次長は日清戦争は避けがたいと予測、荒尾精の日清貿易研究所を設立しで情報部員を多数養成して開戦に備えた』

陸軍参謀本部が初めてドイツ陸軍参謀総長のモルトケの近代戦略に学んで陸軍大改革に取り組んだのは明治18年5月頃で、川上操六を次長とし児玉源太郎を第一局長として発足した。

明治26年6月(日清戦争のちょうど1年前)はその時からすでに約十年を経過しているが、川上参謀次長は終始一貫して戦時大本営の作戦企画に専従し、すでに日清戦争の避け難いことを予想して、細部に至るまで計画を練り上げていた。

そしていよいよ最後の点検を現地でやろうと、同月に剛胆にも部下幕僚4名を連れて朝鮮、清国の予想戦場を偵察し、特に北京では清国の宰相、李鴻章と会談するなど徹底した作戦準備に余念がなかった。上海では日清貿易研究所にも立ち寄っている。(島貫重節『戦略日露戦争』(上)原書房、1980年、3-4P)

日清貿易研究所とは一体何か

当時、清国には川上次長が派遣していた情報員が多数いたが、これらの中で最も有名だったのが荒尾精、根津一という両名で、上海を中心にして情報活動にたずさわっていた。この日清貿易研究所も彼らの経営していた研究所で、すでに明治22年以来、日本人学生約200名が毎年採用されて語学、歴史、社会等の基礎修学と日清貿易交流発展の研究に従事していた。

荒尾精は陸士士官生徒第五期出身で明治19年中尉時代から支那勤務のベテランであり、また根津一は士官生徒第四期(上原勇作が第三期)の砲兵大尉で、陸軍大学校在学中にメッケル少佐というドイツ参謀の教官と喧嘩して退学させられた熱血漢である。この両名が貿易研究所学生の中から優秀な情報員を仕立てたのである。

この6月27日は川上次長は日清貿易研究所の卒業式に出席し、荒尾、根津と情報交換をしている。その翌年の日清戦争の開戦時、陸軍通訳(情報員)第一回募集92名中、72名の採用者がこの時の卒業生であった。

情報報活動に服務する者は、これを命ずる者と命ぜられる者とが一心同体、その運命を共にし殉国の信念に燃えていることが絶対の条件であるとされていたが、これを実地に実行に移していたのがこの時の川上であった。

清国内の諜報網について構築に成功した川上参謀次長は、日本陸軍トップの山県有朋をはじめ、西郷従道ら明治のトップリーダーはいずれも実戦できたえあげた戦略、インテリジェンスを具備していた。

明治維新以来、アジア政策の先覚者として研究し、身を挺し、自ら全権大使として清国・朝鮮問題の解決を主張したのは西郷隆盛である。明治6年の朝鮮派遣全権大使問題、征韓論を主張したばかりか、大陸作戦の準備として、時の外務卿副島種臣や、参議板垣退助らと謀り、明治5年8月、実地視察のため、北村重頼(陸軍中佐)別府晋介(同少佐)を朝鮮に派遣し、池上四郎(同少佐)、武市熊吉(陸軍大尉)を満州に派遣した。

また明治6年初には樺山資紀(当事陸軍少佐)児玉利国(海軍少佐)福島九成(同)を南清地方に送り込んだ。明治九年頃には、鳥弘毅(陸軍大尉)長瀬兼正(陸軍中尉)向郁(陸軍中尉)らが清国留学生として北京に派遣されて、情報収集の任務に当たった。

山県有朋は明治6年(1873)に「軍備意見書」を政府に提出しているが、その内容は、

①ロシアの南下政策、シベリア鉄道の建設を考えれば日露戦争は避けられぬこと、

②そのためには戦略要点である朝鮮を事前に確保する必要があること、

③朝鮮に利害を持つ清国との戦争は必至であるーの3点にあった。

このような認識の下、清国に対して明治8年(1875)より北京の公使館付武官を中心に、組織的で広範囲な情報活動が始められた。

。島弘毅中尉の「満州紀行」、長瀬兼正中尉の清国一八省の調査、向郁中尉の揚子江地域調査、大原里賢大尉の「陜川経歴記」(陜西・四川省方面調査)がその成果の一部である。また相良長裕少尉は広東方面を調査し、清国の軍制や兵器の情報を集めた。

明治12年(1879)には志水直大尉以下10人の将校が滑国各地に派遣され、組織的調査が行われた。明治15年(1882)以降になると、現地に住んで商業活動を行っていた日本人青年を調査活動のなかに組み入れ、清国軍の動きや内情を探った。

福島安正中尉の抜群の諜報の能力については、この連載でもすでにふれたが、もう一度おさらいするとー。

福島中尉は明治12年(1897)、上海や天津、北京、内蒙古を5カ月にわたって旅行し、清国の国情を広く調査した。特に北京では付近の軍備状況を深く調査した。参謀本部によって長期的、計画的、かつ広範囲に行われた調査活動により膨大な量の情報が集められた。

参謀本部は情報を体系的に取捨選択し、『隣邦兵備略』(64巻)にまとめた。この調査書では清国の地理、交通状況、風土、民族、清国皇帝の親衛部隊、装備、訓練、士気、1級幹部のリスト、経歴、能力、性格、家庭状況までが詳細に分析されている。

福島中尉は明治15年(1882)に再び清国に赴き、北京公使館付武官として靖国軍隊の研究や、各地の軍備状況の視察(満州方面から上海、香港まで)を行った。また清国軍の軍事顧問となり、滑国の依頼により兵部衛門(陸軍省)内に事務所を与えられ、清国官吏を部下として、清国軍の現状調査書を作成した。

福島は情報を密かに参謀本部へ伝え、これにより参警部は『清国兵制類集』(65巻)を作成した。参謀本部は清国の地理や交通状況、軍事状況を清国軍の幹部以上に詳細に知り、これを基礎として小川又次中佐を中心に対滑国戦作戦案の「清国征討策案」を明治20年(1887)に作成した。

明治の軍人の優れたところは、詳細な情報を集めて作戦案を策定しながら、なおかつ参謀本部の実質的責任者だった川上操六次長が自分で情報収集に動いた点だ。川上は明治26年(1893)4月から7月にかけて、朝鮮や清国を視察。特に清国では清国軍の訓練、砲台の防備、兵器製造所まで詳しく見て、対清国戦の勝算を確認した。

日清戦争中、日本軍が押収した清国軍の文書の中に日本の地図があった。本州、四国、九州が楕円形に描かれ、大阪の場所に東京の地名が入っており関係者を驚かせた。清国軍はこの程度の情報で日本軍と戦ったのである。勝敗はおのずと明らかであった。

(以上は谷光太郎「敗北の理由」(ダイヤモンド社、(2010年、176-179P)

日本リーダーパワー史(71) 明治のトップリーダーの素顔は・中江・山県・川上・・・<頭山 満が語る明治リーダー真の姿>明治のトップリーダーの素顔・中江・山県・川上<頭山満が語る明治リーダー真の姿>

http://www.toshiyukimaesaka.com/wordpress/?p=2245

川上操六の素顔

頭山満は語る

人間という奴は妙なもので、民間にいる間は一かどの役に立つべき豪傑肌の男でも一度、官吏の仲間入りするが最後、三文の価値もない骨抜きの幽霊になってしまう。つまりお役目ゆえに骨抜きになるのじゃなあ。軍 人とか何々官とか、エラそうにいいながら、先輩や上官の前に出ると、ネコににらまれたネズミのごとくふるえへ上って、たゞもうどうして御機嫌を取ったらよ いかといふことばかりに気を取られて、男一匹自己の意見を述べることが出来ないとは、何たることか。情ない人間が多くなったものじゃ。

そこへ行くと川上操六は実に偉かったと思う。彼は随分面倒の多い時代の陸軍を背負っていたが、いやしくも自己の計画がこれだと信ずる以上、あくまでも無遠慮に押通しておった。たとえ元老だろうが先輩だろうが、眼中に置かなかった。

水清ければ魚棲まずで、川上が陸軍部内にある間は、日本の陸軍は大丈夫じゃったが、それだけ川上は元老連から嫌われていた。川上は頭脳の緻密な男で、国防問題を担任、研究する参謀総長として、まことに適任であったと思う。

歴代の総長は誰も彼も元老の圧迫を受けて、思う存分の仕事が出来なかったが、川上だけは格段じゃった。いやしくも一国の干城として軍務に携わるほどのものが、左顧右鞭、他の御機嫌を伺うようなことで何が出来るか、川上は近代の軍人中の偉い男じゃ。

川 上の身後を飾るべき美徳は一意専心君国のために働いたことである。これまでの役人や軍人が、表面にはヤレ国家のためとか、大君のためとか、体裁のよいこと を言うてはいるが、その実、彼等は職務を利用して私腹を肥やしているのだ。立派な面を被って天下を欺き、自己を偽る偽善家の群である。

こ ういう腸の腐った人間が国政を左右するから、種々忌まわしい問題が起るのだ。その点になると川上は気持のよい程、潔白じゃった。武人がゼニに執着するよう になれば、それでおしまいじゃ。荒尾精が日清貿易研究所を作って金に窮した時、川上が番町の自宅を抵当にして四千円の金を都合してやったことなどは、今時 の軍人には薬にしたくも見ることは出来ない。軍人精神の著しく堕落してゆくにつけ、自分は川上を憶ひ出す。

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究

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