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『日本の運命を分けた<三国干渉>にどう対応したか、戦略的外交の研究講座⑭』★『 日清戦争勝利を呼び込んだ川上操六参謀次長の|ワンボイス」体制』★『日本の勝因―‐機能した「広島大本営」★『清国の敗因―恐るべき清国軍のワイロ・腐敗の実態』★『陳破空著『日米中アジア開戦』の「張り子のトラ海軍」「清国ドロ船海軍」のウソのようなホントの事実!?』

   

逗子なぎさ橋珈琲テラス通信(2025/11/12am10)
 
 勝利を呼び込んだ川上の|ワンボイス」体制
日本の勝因―‐機能した「広島大本営」

明治の軍令最高機関「大本営会議」は統帥権の独立により、出席できるのは大元帥天皇と陸海軍の統帥幹部に限られていた。ところが伊藤首相は自ら明治天皇に願い出て参加し、山県も軍の最長老として参加した(山県出陣の後は陸奥外相に代わった)

川上陸軍上席参謀が陸海軍幕僚を一本化して統監、全作戦を指揮し、樺山海軍軍令部長もその指揮下にあったことで、川上のワンボイス体制が成功した。川上は統帥権の独立は、絶対不変なものではなく、状況によって臨機応変に対処するインテリジェンス(叡智)を持っていた。川上が急死後の日露戦争でも、大本営は文官を加えた、シビリアン・コントロールの体制を維持していた。

ところが、昭和の軍閥はこの統帥権を逆手にとって「統帥権干犯」と騒ぎ立てて参謀本部独裁体制を確立、天皇の統帥権を無視する現地部隊の独走、暴走を許す結果となった。昭和に入ると、張作霖爆殺、満州事変、林銑十郎朝鮮軍司令官の越境事件など軍の暴走は枚挙にいとまがない。

日中戦争から太平洋平洋戦争へと向かう中で陸軍参謀本部、海軍軍令部が並列2チャンネル体制で分裂、互いに情報を秘匿して川上のような一本化した作戦指導ができなかった。

「大本営」も一九三七年には「大本営政府連絡会議」、 一九四〇年には「大本営政府連絡懇談会」と名称が変わり、大平洋戦争に突入する前に再度、「大本営政府連絡会議」に変わった。敗色が濃くなった一九四四年八月、小磯内閣は「最高戦争指導会議」とさらに変更したが、陸海軍の意思疎通はゼロで、作戦遂行もままならず、その閉鎖秘密体質、コミュニケーションの断絶が敗戦へとつながった。もし、昭和前期まで川上が生きておれば、激怒して即、クビにしたであろう無能な参謀総長が連続したことで、日本は減んだのである。

また、もう一点、伊藤首相の適切な指導力もあげられる。伊藤は山県のワンマン体質を心配し、山県が第一軍司令官として出征する際に明治天皇に奏請し、山県とその幕僚に勅語を下賜した。「文、武官相反することなく、軍事外交を、あい齟齬することなく、陸海両軍はよく気脈を通じ、首相と外交官の間も緊密にせよ」という内容である。そして、山県がこれを破り、統帥権を干犯した段階で、断固解任するリーダーシップを発揮した。

清国の敗因―恐るべき清国軍のワイロ・腐敗の実態

満州での生活が長かつた英国人牧師クリステイーの著書[『奉天二十年(上)』(矢内原忠雄訳、岩波新書、一九三八年)によると、清国兵は満州の各地から召集された雑多な集団であつた。彼らの多くは、畑からまっすぐに徴募された者や、街頭からかき集められた乞食、無頼漢などで、奉天で二週間の訓練を受けては前戦へ放り出された。

その武器は、西欧式の銃器ではなく,錆びた小銃や古い火縄銃、弓矢のほか、大半は旧式の短刀、木槍などで日本の戦国時代の武器よりも劣っていた。「小銃など渡されても、扱い方を教える時間も教師もいなかった。兵士たちは派手な軍服、真紅のジャヶツトを着て、奉天から鴨緑江まで一列に連なつてとぼとぼと行軍していつたが、日本軍の近代的な砲火で餌食となる憐れな誘拐された一群でしかなかつた」とクリステイーは書いている。

●ロシア紙『ノーヴオエ・ヴレーミャ』は「なぜ弱いか清国軍―腐敗、鳥合の衆の実態」

一八九五年一二月三〇日付ロシア紙『ノーヴオエ・ヴレーミャ』は「なぜ弱いか清国軍―腐敗、鳥合の衆の実態」の記事で「立派な人間は兵にならない」という中国のことわざを紹介している。清国で兵士になるのは正業を厭い、軍隊の給料をもらってぶらぶらしている連中なのだ。こういった兵十は大砲の的になることを好まない。敵方であろうと自国民であろうと、かまわず住民から略奪する方を選ぶ。

清国軍の兵員数は書類の三分の一から半分しか実際はいない。師団長や幹部が国庫から全定員分の給料と食料を受け取るが、その何割かをピンハネ、ワイロとして私腹を肥やしている。閲兵や行軍のときは、ボロを着ている浮浪者に急場しのぎに服を着せ、武器を与えて、不足している人数を補う。このような軍隊が訓練を受けている常備の要員よりさらに低劣なのは言うまでもない。これでは徴兵制で西欧式の日本軍と比べるとき、「連戦連敗」も当然だったといえる。

●坂西利八郎も清国軍の内幕を語る「『売命銭』しか戦闘しない」

のちに哀世凱の政治・軍事顧間となった坂西利八郎も清国軍の内幕を語る。「支那の兵隊は、給料のことを『売命銭』という。すなわち命を売る銭です。兵隊たちは『お前今日は売命銭をいくらもらつたか」「二〇銭しかもらわない』などと話し合って、戦争に行く。ちょっと戦線まで出て行ってボンボンボンと撃って、もう二〇銭分働いたから帰るというよう情況です」

「一方、『生きて帰るな』と故郷をバンザイで送り出された日本兵とは戦闘意識がまるで違うのです。軍神第一号・木口小平の『死んでもラッパを放しませんでした』に象徴されるようにいざ決戦となった段階で、突撃精神の日本兵に恐れをなして、文那兵は一斉に逃げ出して城はもぬけの殻となる」

●巨大な清国軍は「張り子のトラ」だった

日清戦争当時の日本と清国の国力差をみると、清国のGDPは世界一で世界全体の一七・六%を占め、日本のGDPはその五分の一。陸軍兵力は清国陸軍一〇〇万、日本陸軍は二〇万とこれまた五分の一.海軍では北洋艦隊は軍艦が十八隻、日本の連合艦隊の軍艦は一四隻、連合艦隊は軽火力兵器と速射砲でわずかに上回っていただけ。ところが、いざふたを開けると、清国の完敗だった。中国側の研究者は「腐敗していたから北洋艦隊は日清戦争で全減した」と結論している。

●陳破空著『日米中アジア開戦』の「張り子のトラ海軍」「清国ドロ船海軍」のウソのようなホントに事実!

陳破空著『日米中アジア開戦』(山田智美訳、文藝本秋、二〇一四年)には、「清国政府が北洋水師(北洋艦隊のこと)に支給した軍事費のうち、弾葉、整備、訓練の三項目の費用のほとんどが幹部に横領された。北洋水師司令官(当時は提督と呼称)の丁汝昌は率先して私腹を肥やし、砲弾の備蓄などそっちのけで、しかも清朝の兵站に、『砲弾は置く場所のないほどに蓄えられ、運搬を待つのみ』という電報まで打っている。結局、いざ開戦となる三ヵ月前になって、大急ぎで砲弾を買い集めるが、開戦時には二隻の主力艦主砲に対し三発の弾九しかないという始末だった。

大勢の艦長(当時は管帯と呼称)は職権を濫用して、軍事訓練や船や機械の整備の経費をすべて横どりし、手入れや修理をせず放置した」

「北洋水師はかつて『軍長(当時は総兵と呼称)以下、将官はみな一年中船上で起居し、役所も邸宅も建てない』という規定があった。だが実際には、各艦艦長は基地の近くに私宅を構え、妻や妾と暮らしていた。北洋水師の基地があった山東省劉公島にはアヘン吸引所や賭場、遊郭が林立し、七〇〇軒以上にも及んだ。司令官・丁汝昌は、ふだん艦隊を離れて妻や妾と暮らし、軍事のことなどおかまいなしに、ただ享楽に浸っていた。丁はさらに遊女を囲い、淫にふけっていた。また、劉公島に店まで出してぼろ儲けをしていた」と清国側から見たあきれ果てる実態が記されている。

また、李鴻章が北洋艦隊の実弾射撃を視察した際にも、兵士たちは偽装を行っていた。「定遠」の艦長は、標的の船にあらかじめ兵士を潜伏させ、軍艦の砲声を聞くと同時に標的の船上で爆薬に点火して爆発させ、あたかも砲弾が命中したかのように見せかけた。このエセの軍事訓練に李鴻章に騙されて北洋艦隊は百発百中、向かうところ敵なしと思い込んだ。

写真は丁汝昌

日清戦争が起こった時、北洋艦隊旗艦の「定遠」がまず第一砲を発した。だがその砲弾は自分たちの艦橋に当たり、その場にいた丁汝昌は甲板から落ちて左腕を骨折する重傷を負い、指揮できなくなった。実は「定遠」が放った一発の砲弾は日本側の旗艦「松島」に命中したが、弾薬不足のため爆発しなかった。その後、「定遠」は何度か砲撃を試みたが、日本艦船には一つも当たらず、逆に日本軍艦の砲撃で大破した。

まさに「張り子のトラ海軍」「清国ドロ船海軍」どころか、噓のようなホントの事実なのである。だったのである。現在の尖閣諸島を巡る紛争や南シナ海での中国海軍のデモンストレーションは、この「張り子のトラ海軍」の延長線上にあるのかもしれない。

 

 

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